2015年7月24日金曜日

「予定されていないものこそ“未来”である」という定義


東京大学名誉教授で、「バカの壁」の著者として知られる養老 孟司さんの講演を聴く機会があり、その中のお話からです。

養老氏は、初めに「過去」「現在」「未来」の、それぞれの定義ということからお話されました。

ここでは、「現在」を単純に“今”としてしまうと、「現在」はほんの一瞬しかなく、すぐに「過去」となって流れていってしまうので実質的ではない。本来言っている「現在」とは「手帳に書けるもの」、すなわちすでに予定されているものということで、例えば東京オリンピックは、まだ先のことであるが、すでに予定が決まっていて、それに向けて多くのことが動き出しているということでは「現在」である。そんなお話でした。

さらに、最近よく子供たちの「未来」がない、「未来」が暗いなどと言われるが、それは何でもレールを敷き、見通しを立て、計画しようとするせいで、予定されていないからこそ存在する「未来」を、大人たちが「現在」に変えてしまっているからで、一昔前までは大人になる前に死んでしまう子供たちがたくさんおり、先がどうなるかわからなかったがゆえに、子供たちの先の予定を立てる事をあまりしなかったために、「未来」がたくさんあったのだということでした。

何でも予定されていることが安心で良いことのようになっているが、人の死や病気など、絶対に予定できないことは確実にあり、本来の人間らしく生きるためには、予定されている「現在」と、予定されていない「未来」のバランスが取れていることが必要である。そして、特にビジネスの世界では、何でも計画をして見通しを立てようとするが、そうやってわかったことばかりやろうとするのは、自分たちの「未来」をなくしているのだということでした。

この話で印象的だったのは、「自分たちで“未来”をなくしている」というところです。確かに計画として予定されている範疇では、新しいものは生まれてこないでしょうし、不確定だからこそ、それが夢や希望であるともいえます。

これはビジネスでも同様で、何でも計画的に、見通しを立てて行うことばかりが良いことのように言われますが、「予定されていないからこその“未来”」を狭めているといえます。
「未来」に抱く夢や希望、ワクワク感、どうなるかわからないという良い意味での楽しみがなくなっているということです。

予定する、計画するということは大事です。でも、未確定で見通しがない、「予定されていないからこその“未来”」を少しでも持っていることは、人として必要なことではないかと思います。


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