2015年3月6日金曜日

意識しないとなかなかできない「全体をみる」ということ


たまたまあるホテルの宴会場に立ち寄った時のことです。

たぶんどこかのクラス会か何かだと思いますが、「○○の傘寿の会」という看板を見かけました。
傘寿と言えば、年齢80歳のお祝いのことです。何の気なしにふと会場をのぞいてみると、100名近いお年寄りが会場に詰めかけています。皆さんお元気そうで、とても80歳とは見えないような方もたくさんいらっしゃいます。

その時私と同行していた人がそんな様子を見て、「いやぁ、最近のお年寄りは80歳でもみんな元気だね!」と言い、私もなるほどそうだと賛同していました。

ただ、このことを後からよくよく考えてみると、そもそもそんな会場に出かけてこられるお年寄りは、自分一人でも出歩くことができる健康なお年寄りが大半であるに決まっています。
 もしも体調が悪かったり病気があったりする人が、そこに参加している人の何倍もいるのだとしたら、「今どきのお年寄りがお元気だ」とは必ずしも言えません。

ただ、「みんなお元気だ」の言葉に何の違和感も持たなかったのは、様々なメディアや自分の実体験を含めて、「最近は年齢の割に元気で活動的な方が増えている」という先入観があったからです。

自分が実際に触れ合う人や街中の様子を見ていると、まさにお元気なお年寄りが大半ですが、これは私が出会う人たちが、たまたま元気な人ばかりに偏っているということはあり得ます。本当に全体を見ることができていて、状況を正しく把握できているのかは何とも言えません。

こんなことを考えながら思ったのは、よくリーダーには全体を俯瞰してみる目が必要だと言われますが、これは相当に意識をしていないと難しいということです。

やはり人間は、私も含めて自分が実際に体験したことの方が、心に強く印象付けられます。しかし自分が体験できることというのは、おのずと偏りが出て来ます。
自分が直接かかわるのは、自分が興味あることや好きなことがほとんどですし、付き合う相手もそれなりに気が合う人であることが大半です。
メディアが発信する情報や、書籍に書いてあることなども、印象に残るのは自分が共感したこと、なるほどと思ったことですが、これも触れ合う情報を自分が選択しているということでは偏っている可能性があります。

そうやって、印象に残りやすく、なおかつ偏りがちな自分の体験をもとに「大局」を見ているとしたら、それはそもそも「大局」ではないということです。

自分が興味ない情報であってもアンテナを張る、自分と気が合わない人とでもそれなりに付き合う、面白そうとは思えない本も読む、自分とは興味の範囲や意見が違う人を身近に置くなど、かなり意識をしないと、本当の意味で「全体を見る」ということはできないと思います。

ただ、自分が苦手なことや興味を持てないことに取り組むのは、自分の努力だけではなかなかできることではありません。そんなところをカバーしてくれる、自分とはちょっと違うタイプのパートナーに身近にいてもらうということが、「全体を見る」ためには一番現実的な方法のように思います。


0 件のコメント:

コメントを投稿