2014年10月31日金曜日

男性ではなかなか理解しきれない女性の「職場の悩み」


日本産業カウンセラー協会が「働く人の電話相談室」で受け付けた相談のうち、約6割が女性からのもので、悩みを抱える人が男性の2倍以上に上るとのことです。

また相談があった悩みの3割は「職場の悩み」で、そのうち4割は「人間関係」、さらにここに「パワハラ」や「いじめ」といったものまで含めると、7割近くが「同僚」や「上司」との人間関係に関わるものだそうです。

女性の方が周囲との人間関係に敏感で、なおかつ繊細ということが言えるのかもしれませんが、私の人事業務の経験の中でも、男である私にはちょっと理解できないようなことは、何度かありました。

例えば、ある会社の女性社員から、「○○さんが視界に入って目障りで仕事がしづらいので、席替えをするように会社に言って欲しい」と言われたことがあります。
その時私は少しイラッとしながら「そんな子供っぽい個人的な感情には、会社は対応できないでしょう」と伝えましたが、本人はきわめて真顔の本気でしたから、こういう要望を出すことは、彼女にとっては当然の行動だったのだと思います。

これは極端な例かもしれませんが、働く女性から聞く話では、男性同士ではあまり無い、女性特有といっても良いような人間関係に関することをよく耳にします。

先日も、普段はいつも車で移動している女性が近くのパート先だけは自転車で行くので、なぜかと聞くと、現場を仕切っている古株の女性パート数人が、数少ない駐車場を占領しているので、他の人は車では通えないのだそうです。不満はあってもとても言い出せる雰囲気ではないそうです。

またある会社では、勤務態度も良く評価も高い女性社員が急に退職したいというので、その理由を聞くと、ある同僚女性と一緒に働くことが嫌だと言います。くわしく聞いても仕事を辞めるほどのことはないように感じましたが、本人にとっては大問題のようでした。
他にも一緒に働く女性同士の人間関係を理由にして、転職を考えたり異動を希望したり、産休からの復職を躊躇するような人がいるという話は、よく聞くところです。

男性にとっては小さなこと、些細なことと思うようなこと、男目線で見ると「感情的」「わがまま」「自分勝手」と見えてしまうことでも、女性同士の間では、かなり深刻な場合があります。

女性の活躍を考える中では、こんなことにも注意を払い、環境作りをする必要があるように思います。多くの会社では、管理職の男性比率が高いですから、女性特有の悩みには気づかないことが多いでしょうし、もし気づいたとしても、取るに足らない些細なこと、自分勝手なわがままこととして扱っているのではないでしょうか。

女性の活躍のための環境作りは、配偶者控除のような税制や、管理職の女性比率、出産・育児に対する支援などの話が大きく取り上げられています。これらの施策も重要とは思いますが、どれも男性的な発想が強い中で組み立てられたもののような感じがします。
実際の現場を見ていると、実は職場の小さな人間関係をどうにかすることの方が、当事者である女性にとっては大事なことなのかもしれないと思います。

私も男なので、正直理解しきれないところがあります。しかしこのあたりは、男性の立場であっても、理解するように心がける必要があるのではないでしょうか。


2014年10月29日水曜日

「強引さ」を受け入れる人・拒む人


世の中のコンサルタントの中には、周りに熱狂的と言っても良いようなファンがいて、神様扱いされているようなカリスマと呼ばれる方がいます。
あくまで私の印象ですが、こういう方々は良くも悪くもとがっていて、主張も言葉の調子も強く、時に相手を罵倒することもいとわない、「強引さ」を持った人が比較的多いように感じます。

そんなカリスマのセミナー、講演、コンサルティングには、多くの人たちが集まってきます。しかし、考えようによっては、ここに集まってくる人たちは「わざわざお金を払って怒られに来た」という感じになります。

私も同じコンサルタントですが、好んで怒られる人の心理はあまり理解できません。ですから、自分がそういう「強引さ」を打ち出したスタイルで、何かをやろうとは思いません。

理由は単純で、いくら評判が高いカリスマで、経験豊富な人であったとしても、自分のことをたいして知らない相手から、一方的に小言を言われたり怒られたりするのは、相手がどんなに偉くても納得はできないし、何よりも気分が悪いからです。
相手との距離を考えずに、自分の主張を一方的にするのは、はっきり言って横柄だと感じてしまうからです。

「そんな気持ちだからお前はダメなんだ!」などと言われるかもしれませんが、これは相手との人間関係を作る上で持っている基本的な価値観なので、そう簡単には変えられません。
ただ、こんな私の感覚とは対極にいる人たちも大勢いるということであり、「強引さ」を快く受け入れる人と嫌悪感を持って拒む人の両方が存在するということです。

このような人のタイプの違いを見る時に、私はOタイプ」と「Dタイプ」という見方で分けることがあります。
もうお気づきだと思いますが、Oはオフェンシブ(攻撃型)、Dはディフェンシブ(守備型)のことで、性格的にそのどちらの傾向が強いのかということです。

例えば営業職などの場合、「Oタイプ」は自分主導でストーリーを組み立てる提案型の傾向が強く、「Dタイプ」は顧客ニーズをよく聞いてから対応するリアクション型の傾向があります。一般的には、営業トークがうまくて説得力があるのはOタイプの方が営業に向いていると思われがちですが、クレーム処理などはDタイプの方がうまいのではないでしょうか。もちろん一概には言い切れませんが、新規開拓や攻めの営業はOタイプの方が得意で、既存顧客との関係づくりやサポートにはDタイプの方が向いているように感じます。

こんな見方をすれば、「強引さ」を受け入れる人はDタイプ、拒む人はOタイプという感じではないでしょうか。

単純な二択ですが、身近な人たちに当てはめて見ると、意外にはっきり分けられるように思います。組織作りなどを考える中であれば、このどちらのタイプもあまり偏りなく、ある程度のバランスで存在することが望ましいでしょう。

前述のような「強引さ」を持ったカリスマコンサルタントも、それを好む人たちがいるからカリスマでいるわけです。私はその「強引さ」が嫌いなので、一方的に怒られたい人とつながることは少ないですし、主張が強引な人との相性もあまり良くないようです。

お互いが対等な立場で意見を言い合うことができる関係が、最も好ましいと思っていますが、そうは言っても、人のタイプとして受け入れられる幅は、もっともっと広げていかなければならないと思う今日この頃です。


2014年10月27日月曜日

あえて「権限委譲」のデメリットを考えてみる


組織作りの上で、管理者が部下に仕事と行動を任せる「権限委譲」の重要性が言われます。そのメリットとしては、
「現場レベルの正しい情報による意思決定ができる」
「意思決定のスピードが上がる」
「自己決定できることで部下の意欲が向上する」
「一つ上の立場で仕事をさせることでの能力向上」
「結果への納得性が高まる」
などが挙げられます。

一方で「権限委譲」には当然デメリットもあります。
「権限委譲された者の能力が不足していて適切な意思決定が出来ない」
「自分の評価を気にしたり、結果責任を避けようとして、全体では好ましくないような意思決定をしてしまう」
「局所的なテーマに注目しすぎて部分最適ばかりを考えた判断をしてしまう」
などです。
判断の誤りが大きな事故を招く懸念があるような職務の場合は、その性質上、「権限委譲」に向かないようなものもあります。

 「権限委譲」を実行するにあたっては、これらのデメリットも考慮する必要があります。
能力面では、問題点を早期に把握して指導していくべきですし、仕事は失敗から学ぶことも多いですから、任せたからには多少のことには目をつぶることも必要です。まずやらせてみなければ、部下は育ちません。うまく失敗させるようなさじ加減も必要になります。

このように、「権限委譲」を進めるためには、相応の環境作りと当事者の心構えが必要になります。
一般的に言われる組織原則の一つに、「権限・責任一致の原則」があります。「責任を負わせるならば、それに見合った権限を与えよ」ということですが、このバランスを欠いた権限委譲を往々にして見かけます。任せたと言いながらいちいち口出しをして、結果的に任せていない場合と、同じく任せたと言いながら、そのための環境作りが何一つされていない場合の二つです。

実際の判断を権限委譲しないのは、上司による仕事の抱え込みで部下の仕事を奪っていることですし、環境作りがされないままでの権限委譲は、ただの仕事の丸投げで無責任です。それでは部下は育ちませんし、それぞれの行為は部下育成を放棄しているのと同じことです。

デメリットという面から「権限委譲」を見てみても、そこで見えることは、結局は「適切な権限委譲をしなかったことによる弊害」という感じがいます。
こんなことからも、組織作りにおける「権限委譲」を適切に行うというのは、とても重要なテーマなのだと思います。

2014年10月24日金曜日

「やりたいこと」に見る、経営者とそうでない人の違い


今の私は組織に属さずに仕事をしているせいか、自分と同じような立場の方々と接する機会が多くなっています。事業規模の大小はありますが、経営者や事業主といわれる人達です。

そういう方々は、自分のやりたいことがとてもはっきりしています。こういう事業をやりたい、こういう立場になりたい、こんな貢献をしたいなど、その中身はいろいろですが、考えていることには共感したり、尊敬したり、刺激を受けたりすることもあります。目指す場所がはっきりしているというのはすばらしいことだと思いますし、やはり皆さん、曲がりなりにも経営者だなぁと感心します。

ただ、その中でごくたまにですが、「本気でそんな風に考えているのだろうか」と思ってしまう人に遭遇することがあります。先日お会いした起業したての社長さんがそうでした。

ご自身のビジネスプランを熱心に語るのですが、要所要所にご自身が都合よく解釈した強い思い込みが混じっています。これはあくまで私の印象ですが、そのサービスをお金を払って受けたい人は、なかなか見つからないのではないかと思ってしまいました。

また、会社を立ち上げたばかりで気合いが入っているせいか、強めの押しで売り込んできます。でも私は、会ったばかりの人といきなり取引はしないですし、そもそも私には不要のサービスです。
その方の「やりたいこと」は理解できますが、ちょっと「独りよがり」なところが多すぎると思ってしまいました。

他にもこれまでに、「俺が直してやる」的な上から目線の人、自分のビジネスプランばかりを一方的に語る人、手助けだと言って立ち入って欲しくない領域まで踏み込んでくるおせっかいな人などに出会ったことがありますが、共通するのは「独りよがり」ということです。「周りから望まれていること」にはあまり気づいておらず、「自分のやりたいこと」ばかりが優先されています。

こんな「独りよがり」は企業の中でも見かけることがあります。
例えば上司の指示などは後回しで、自分が思っていることばかりを優先するような部下がいます。、「上司の指示はあまり重要と思わない」などと言いますが、やっているのはそれほど優先度が高くないことだったりします。
逆に上司や管理者による場合はもっと多く、部下たちは右往左往で振り回されていますが、本人は何も感じていなかったりします。トップの社長が振り回している張本人のこともありますが、経営者としてのリスクを負っているということでは、組織に属する管理者などの場合とは少し事情が違うでしょう。

経営者であれば「独りよがり」であっても、最終的には自分の責任になります。自分の行為は確実に自分のもとに返ってきますが、組織に属した人の「独りよがり」の場合は、必ずしもそうではありません。自分へのリスクを意識しないので、「やりたいこと」が加速して「独りよがり」には気づきづらく、その分だけ躊躇がない感じがします。

こうやって見ると、「やりたいこと」から見える「独りよがり」は、経営者よりも組織に属する人たちの中で起こった時の方が、よほど問題が大きいのかもしれません。



2014年10月22日水曜日

初めからそのつもりばかりでもない「社交辞令」


ある記事で、「ビジネスで使う絶対実現しない社交辞令だと思うフレーズランキング」というものを見ました。

男女別でベスト5が挙げられていて、そこで多少の順位の違いはありましたが、それぞれ挙げられていたのは以下の六つでした。
・前向きに検討させていただきます
・近いうちに飲み(食事)に行きましょう
・近くに来たら寄ってください
・機会があれば一緒にお仕事したいですね
・また、お目にかかれますことを楽しみにしています
・落ちついたら会いましょう(遊びましょう)

これらの言葉、私自身はすべてを思いっきり使っています。直接相手に言うこともあるし、メールやメッセージなどの文書で送ることもあります。
でも、こんなランキングに挙がると言葉というのは、相手がこれらを聞いたときに「ああ社交辞令だなあ」と受けとめるということなので、実はお相手に対して失礼なのかもしれないと、少々反省をしました。

ただ、これらの言葉を初めから社交辞令のつもりで、あまり付き合う気がない相手と距離を取るために使う人もいるでしょうが、私自身の気持ちで言えば、必ずしもそうばかりではありません。、

「前向きに検討させていただきます」は、社交辞令というより結論先延ばしのための言葉だと思うので、よほどのビジネス上の駆け引きでもない限り、私はどんな場面でもできるだけ使わないようにしています。

「近いうちに飲み(食事)に行きましょう」「近くに来たら寄ってください」は、ありがちな社交辞令なのでしょうが、私自身の気持ちで言えば、これを言うお相手とは、本当に飲み(食事)に行っても良い、会えるならまた会ってもよいと思っている時なので、初めから社交辞令のつもりで使っていないことが多いです。結局は実現せずに、社交辞令となってしまうことも多いですが・・・。

「機会があれば一緒にお仕事したいですね」も、もしそうなったら対応しても良い感じで使っています。でも実現のハードルは高いので、飲みのお誘いよりは、社交辞令のイメージが強いように思います。

「また、お目にかかれますことを楽しみにしています」「落ちついたら会いましょう(遊びましょう)」については、私自身も「きっと実現はしないだろうな」と思いながら、相手の調子に合わせて言っているので、社交辞令として使っている感じがします。

これらの使い方や捉え方は、きっとそれぞれの人によって違うと思いますが、初めからいかにも社交辞令とわかってしまうような振る舞いは、やはりあまりうれしいものではありません。

でも、社交辞令はムダで不要なことかと言えば、決してそうではないと思います。
私の経験でも、初めは社交辞令で終わっていたことが、あるきっかけで2年後に実現したなどということがありました。
社交辞令で終わらせないようにと、お相手が気を遣ってセッティングしてくれたこともありますし、自分からそうしたこともあります。これもきっかけがあって出会ったからこそできることです。

社交辞令で終わらせたくない時には、それを具体的にする行動をとるべきだと思う半面、こういうやり取りも、出会いの始めの入口としては必要なことではないかと思います。


2014年10月20日月曜日

どうしても好きになれない「人事権を持つ人たち」の勝ち組気分


最近の雑誌やウェブ記事で、「働かないオジサン」「お荷物社員」「出世する人・しない人」「再雇用される中高年と捨てられる人」といった、主に40代以上の年齢層の人材価値に関するものをよく目にします。「人事部は語る」といったたぐいのものです。

私もいろいろな企業の人事に関わる仕事ですから、記事の内容はついては「確かにそうだ」と思うことも多いです。現場で多くの人材を見ていると、使えない側に選別されてしまう人は、ご本人の意識や姿勢、取り組み方に問題が多いことも確かです。

一方で、そういう人材に育てたのは会社の責任でもありますから、今までの経緯を棚に上げて、急に自己責任だと言って会社から追い出そうというのは、少し虫が良すぎる話ではないかとも思います。

最近では、会社側もただ追い出すだけではなく、社員側もただぶら下がることではなく、双方が自らの問題と認識した上で、人材の再教育や流動化を進めようという取り組みが、いろいろなところで少しずつ始められています。この効果が徐々に出てくれば良いと思っています。

この話からは少し離れますが、「人事部は語る」というたぐいの記事は、いろいろな立場の方々によって書かれています。企業人事のOB、コンサルタント、大学教授、その他様々ですが、中には現役の人事担当や管理職の方もいらっしゃいます。

私は、この「現在は企業にいながら、この手の人材選別について語る人たち」のことが、どうしても好きになれません。他人を見下しているような雰囲気があったり、「自分は使えない人材ではない」と確信しているような、妙な勝ち組意識を感じてしまうからです。
この人たちの共通点は「現時点で人事権を持っている人たち」ということです。

これはある企業の採用活動でのことですが、若手社員が応募者の合否を決める場面で、相手をバカにしたような発言を、平気でしているのを見かけたことがあります。「こんな奴いらない」などの言い方は当たり前で、相手の容姿のことや差別的な発言をしていることもありました。

これは、どの企業でもあることですが、採用活動のように「人を選別する」という仕事をしていると、いつの間にか自分が上、自分が偉いと錯覚してしまいがちだということです。
社内で「人事権」を持って、人の序列決めや配置などに関わる人たちも、やはり同じような気分になってしまうのでしょう。

私自身は現場経験を経てから人事の仕事にたずさわるようになったので、変な特権意識や優越感とは無縁な人事部門でしたが、それでも「人事権を持つ人たち」の一員であったことは間違いありません。
「人を選別する」「人に序列をつける」という自分を勘違いしやすい仕事の中で、いつも心がけていたのは、「相手に対する尊敬は忘れない」ということでした。
具体的には、会社での業務上の評価はしても、相手の人格まで見下したような態度は絶対に取らないというようなことです。

企業内での自分の立場というのは、いつどういう形に変わるかはわかりません。さらに会社から離れれば、そんな社内の序列は関係ありません。会社で「使えない人」が人気者で、「できる人」が嫌われ者かもしれません。

「人事権を持つ人たち」が、自分を勘違いせずにいてほしいと切に思います。


2014年10月17日金曜日

「私が強いのではなくあなたが弱すぎる」という言葉


ある法事でうかがったお寺のご住職がお話になっていたことです。

ご住職は将棋が好きで、よく将棋を指すのだそうです。ただ、本当に弱くてなかなか勝てないのだそうです。
ある日も将棋を指していて、相変わらずのように負けてしまいました。対局後のお相手に、「やっぱり私なんかではかないません。お強いですね」と声をかけたところ、お相手から返ってきた言葉は、とうとう言われてしまったという感じの図星の言葉だったそうです。

「いや、私が強いのではなくあなたが弱すぎるんです」

自分としてはさすがにショックで、その言葉に反応できずにいると、お相手から続いて出てきた言葉に少し救われる気がしたそうです。

「私もあなたとは大差が無いくらい弱いです。でも私の方が少しだけ自分の弱さを知っていて、それをカバーする術を知っていたということでしょうね」

ご住職は、「人間は自分の弱みを人に見せるのは怖いから、それをできるだけ隠そうとする。人の上に立つ人は余計にそういうところがある。しかし、自分の弱みに向き合ってその弱さを知り、場合によっては他人に頼ることができるのも、その人の強さになるのではないか」と思われたそうです。他人に頼るのが意外に苦手な私としては、ちょっと腑に落ちた感じがしました。

なかなか良いお話でしたが、このお話から私なりにもう一つ思ったのは、「客観的な自分の現在位置」を知ることが大切ではないかということです。

特に将棋のような一対一の勝負では、目の前の相手との「相対的な強さの争い」になります。仮にその相手に連戦連勝などとなれば、「自分は強い」「自分は優れている」などといううぬぼれが出てもおかしくはありません。

しかし、そういう狭い世界の勝ち負けだけで自分のレベルがわかったつもりになっていても、実はその対戦自体のレベルがものすごく低い可能性があります。ビジネスの中でいえば、特定のライバル会社との関係や、内輪の社員同士の競争などで起こりがちになるようなことです。

これを避けるための方法というのは、「いろんな相手と勝負してみること」しかないのだろうと思います。「相対的な力関係」を積み重ねることで、徐々に「客観的な自分の現在位置」がわかってきます。そんな積み重ねや経験があって初めて、自分の強さと弱さもわかってくるのではないかと思います。

競争しろ、勝負しろと、ただ一方的に煽るつもりはありませんが、「客観的な自分の現在位置」「自分の強さ弱さ」を知るためには、競争も勝負もある程度必要なことなのだろうと思います。


2014年10月15日水曜日

言葉のイメージが持つ難しさ


私は世間的には「人事コンサルタント」ということになっていますが、いろいろな分野でコンサルティングをしている専門家の仲間同士で、「コンサルタントという呼び名がどうにかならないか」という話題になったことがあります。

言葉のイメージとして、「偉そう」「何をやっているのかわからない」「うさんくさい」「敷居が高そう」などのネガティブなものばかりが出てくるものの、それでも自分たちの仕事を表現する言葉で、なおかつ世の中に通用するものは、結局「コンサルタント」という言葉しかなく、仕方なしにそう名乗っているという人が何人もいました。ちなみに私もそのうちの一人でした。

これに限らず、言葉のイメージや表現方法による受け止め方の違いというのは、かなりいろいろな場面で出て来ます。

「気合と根性」では受け入れづらいが、「メンタル強化」といえば、すんなり受け入れられたりしますし、相手を主語にした「Youメッセージ」よりは、自分を主語にした「Iメッセージ」の方が、相手が受け入れやすい柔らかなニュアンスになります。
自分のミッションに他人を巻き込んでいこうとしたとき、「俺についてこい」が良い場合、「一緒にやろう」が良い場合、「頼りにしている」が良い場合、「助けてくれないか」が良い場合など、時と場合と相手によって、様々な状況があるでしょう。

経営者や管理者、その他リーダーたちは、自分の意思をどんな言葉で周囲に伝えるかに神経を使っていますし、新聞や雑誌やテレビといったメディア関係、政治家や芸能人といった自分の発言が公の場に流れていく人たちも、同じく気を遣っているでしょう。

私は「人事コンサルタント」として、企業の人事施策や人事制度作りをお手伝いすることがありますが、その際に何をどんな言葉で表現するかということには、それなりに気を遣います。
「課長」が「マネージャー」だったり、「査定」が「評価」だったり、「歩合」が「インセンティブ」だったりしますが、会社によってそれぞれの言葉の捉え方が微妙に異なります。その微妙な違いを含んでおかないと、後から微妙な行き違いが生じます。その行き違いは時間の経過とともに解決されていく場合もありますし、時間が経つほど大きくなってしまう場合もあります。

これがグローバル企業であれば、それぞれの人たちの間に、母国語の違いや文化的背景による違いもありますから、さらに難しさがあるでしょう。

「○○コンサルタント」に代わってしっくりくる呼び名は、残念ながら今のところはまだ見つかっていませんが、これから良い言葉が見つかるかもしれませんし、もともとの呼び名のイメージが今後は変わっていくかもしれません。

言葉のイメージが持つ難しさを解決することは、簡単にはできないだろうと思います。ただ、少なくとも言葉のニュアンスの違いに感性を働かせ、より良い言葉を選べるように習慣づけていくことは必要なのだろうと思います。


2014年10月13日月曜日

「リーダー不在を嘆く人たち」に見える他者依存



「リーダーにふさわしい人材がいない」という嘆きを、いろいろな会社から聞きます。
リーダーシップというのは、人それぞれが持って生まれたキャラクターや相手との相性に左右される部分もありますし、うまく発揮するにはそれなりの難しさがあります。

リーダーシップスタイルには様々な形があり、場面によっての使い分けが必要になります。
その理論にはいろいろなものがありますが、その中の一つである1977年に提唱された「SL理論」では、リーダーシップスタイルを以下の4つに分類しています。
1.教示的リーダーシップ・・・具体的に指示し、事細かに監督する
(部下の成熟度が低い場合)
2.説得的リーダーシップ・・・こちらの考えを説明し、疑問に応える
(部下が成熟度を高めてきた場合)
3.参加的リーダーシップ・・・考えを合わせて決められるように仕向ける
(部下の成熟度がさらに高まった場合)
4.委任的リーダーシップ・・・仕事遂行の責任をゆだねる
(部下が完全に自立性を高めてきた場合)

自分が置かれた環境において、どんなスタイルが望ましいかを判断するには、それなりの経験やセンスが必要でしょう。
私もリーダーシップ研修などをやることがありますが、リーダーの役割を担うためには、小手先のテクニックだけではどうしようもないことも多く、その人のマインドや経験によるところもあります。

一定のベースを持っている人ならば、研修などをきっかけに一段レベルアップできる人がいますが、研修したからといって、すべての人がリーダー役を務められるまでには、残念ながらなりません。それなりの時間もかかりますし、かけた時間に比例して成長するとも限りません。
リーダー的な素養はあったとしても、その人の得手不得手によっては、リーダーシップを取れる分野とそうでない分野があるでしょう。

こんなことを考えていくと、リーダー役を担うということはそもそも難しいことであり、、リーダーが不足することはあっても過剰になることはほとんどないのだろうと思います。「リーダーがいない」という嘆きは、きっと半永久的に続くことなのでしょう。

ただ、この「リーダーがいない」という話の中身を見ていくと、これには二通りの場合があるように思います。、すでにリーダーの役割を担っている人が、「自分の役割を委ねることができるリーダー人材がいない」と言っている場合と、リーダーではない人たちが「自分たちをリードしてくれる人がいない」と言っている場合の二つです。

そしてこのどちらも、リーダーがいれば、かわれば問題が解決するような言い方をし、カリスマ的なリーダーを求めたりします。、「リーダー」に任せておけば、従っていれば、あとは「リーダー」がやってくれる、「リーダー」が決めてくれると考えているようですが、言い換えればこれは完全な「他者依存」です。

日本人にはお上意識が強いと言われます。リーダーをまつりあげ、リーダーに従うことで、自分の存在を保とうとします。
この度が過ぎると、リーダーが何でもやってくれると思い込み、リーダーの意向に従うので自分で考えようとしなくなります。言われたことしかやらない部下、何でも丸投げの上司などは、「他者依存」が過ぎる一端ではないかと思います。

「リーダーがいない」という嘆きが強い人、「強いリーダーシップ」を期待する人ほど、他者依存が強いことの裏返しではないかと思います。
自分自身の意識がリーダーに過度な依存をしていないかは、今一度確認しておく必要がありそうです


2014年10月10日金曜日

人が評価をする限り「主観はなくせない」という前提


体操の世界選手権が中国で行われ、男子団体は最終種目の鉄棒で逆転されてしまい、残念ながら銀メダルとなりました。
この結果に関しては、間違っている、不公平といった批判的なものから、妥当であったというもの、さらには採点基準などのルールが変わった影響などを分析的に述べているものまでいろいろありました。
自国の選手には、ついつい肩入れしするものですし、負けたとなれば文句の一つも言いたくなるのが人情でしょう。いずれにしても採点競技というのはなかなか難しいものだと思います。
 
少し次元は違いますが、同じく採点に関する話ということで、ある会社で部下に対する人事評価結果を、評価者である上長にヒアリングをした時のことです。

同じ等級レベルの社員でも評価の差は当然ありますが、その中に本人評価をさらに下げた悪い評価と、本人評価をさらにあげた良い評価をされている者がいました。
その理由を尋ねたところでの評価者の反応は、悪い評価を下した者ではできなかったことや足りなかった事柄がたくさん挙げられ、良い評価を下した者では逆にできたことや頑張ったこと、成果が出たことが多く挙げられました。どうも思い込みも含めた、「一事が万事」という見方になってしまっているようでした。

このあたりを指摘した上で、あらためて評価結果を見直すことになりましたが、こういうことは会社の中では往々にしてあるのではないかと思います。
こんなことに対して、「評価基準がはっきりしない制度が悪い」「評価者のスキルが足りないことが問題」などと指摘されることも多いでしょう。それぞれ間違った指摘ではないと思います。

もしもここで、「評価基準をはっきりさせる」としたとき、誰が評価しても同じ結果になるようにするためには、すべて明確に数値などで表現できる評価基準にするしかありません。
しかし、普通に行われているビジネスの中では、数値には置き換えられない非定型的な仕事内容が大半を占めます。基準を明確にすることにはおのずと限界があります。

また、評価者スキルも、教育訓練や実施した結果の振り返りなどを通じて、向上させていくことはできますが、それでも絶対に評価者格差がないというレベルに達することはありません。

前述の体操競技でも、世界選手権で審判を担うような、教育もされて経験を積んできた人たちが、限られた時間内に直接自分の目で見ることができる演技を審査していたにもかかわらず、審判ごとの点数差は必ず出てきます。主観による判断の違いがどこかに出てしまうということです。

これが人事評価となれば、まったく異なる業務をしている人たちを、直接には見ていない部分も含めて評価しなければなりません。場合によっては教育が十分でない人が評価者になることもあり得ます。主観が入る余地はさらに大きいということでしょう。

こうやって見ると、どんなプロフェッショナルであっても、人が人を評価しようとする限り、主観は絶対に排除できないということです。
 主観をできるだけ少なくする努力は必要ですが、評価という行為をする上では「主観はなくせないもの」という意識が必要だと思います。その前提で制度を組み立てなければならないし、結果もその前提で使わなければなりません。

評価というと、主観をなくす努力が強調されますが、「主観はなくせない」という前提で、制度や運用を考える方が、結局は現実的ではないかと思います。


2014年10月8日水曜日

リーダーに必要な「論理」と「感情」の使い分け


もう10年以上も前の話になりますが、ある大先輩の経営者から、「普通の人がやりたがらない仕事、苦労することが見えている難しい仕事を、自分の部下にやらせるとしたら、お前ならどうするか?」と聞かれたことがあります。

当時の私は、「一緒に汗を流すと約束する」「精一杯の支援策を伝える」「具体的なやり方を事前に考える」など、「相手が納得するまで説明するしかない」というようなことを答えたと思いますが、その方からは「いや最後は感情だよ」と言われ、自分の考えがまだまだ浅いことを思い知らされた記憶が残っています。、

そこで言われたことは、もちろん論理的な説明は絶対に必要で、それをできるだけ丹念に行うべきだが、最後は自分の気持ちを心を込めて話すことでしか、相手からの納得は得られないということでした。

「力を貸してほしい」「俺の顔にめんじて」など、最後の最後は感情に訴えるしかなく、そのためには、常日頃からの相手とのコミュニケーションを図り、良いことは後押しをして支援し、悪いことは注意をして正し、そんな中で築いた信頼関係がなければ、いざという時にキツイ頼みごとなどはできないということでした。

「説明はロジカルに、お願いは感情で」と言われましたが、これはどんな規模のグループであっても、リーダーの振る舞いとして必要なことだと思います。
いくら仕事だからといっても、組織に属する限りは上司の指示に従わなければならないといっても、信頼できない上司には、やはり従いたくはありません。無理強いばかりの上司、いばる上司、強引な上司などの威圧型や、人任せな上司、やる気がない上司、ヒラメ上司などの無責任型などはその典型でしょう。

私の会社員時代にはこういう上司に出会ったことがなかったので、そんな人はめったにいないと思っていましたが、第三者のコンサルタントとしていろいろな企業の現場に関わるようになってからは、「うちの上司が・・・」などと、この手の上司の愚痴を聞くことが結構あります。

もちろん誤解や言いがかりもあるでしょうが、少なくとも部下からはそう思われてしまっている訳で、部下との信頼関係がうまく作られていないそんな上司は、実は結構存在しているようです。これでは「論理」と「感情」を使い分けるところまでには至らないでしょう。

納得を得るためには、「論理」と「感情」の両立が必要だということで、そこに至るためにするべきことは、やはりお互いの信頼関係作りだということです。
信頼関係を作るための方法は、決して難しいことではなく、「約束を守る」「嘘をつかない」「相手を尊重する」など、人として当たり前のことがスタートです。しかし上司部下のような関係になると、このあたりに甘えが出たり、おろそかになったりすることがあるのではないでしょうか。

リーダーには「論理」と「感情」の使い分けが必要であり、それを活用できるようになるためには、日頃の信頼関係作りが大切です。リーダーの立場にある人たちは、そのことを心に留めておく必要があると思います。


2014年10月6日月曜日

「自転車に乗らないように!」は正しい方法なのか


新潟県加茂市の市長が、自転車に乗っていた中学生が死亡する事故があったことを受けて、市内の小中学生に「なるべく自転車に乗らないように」と呼び掛ける文書を配ったそうです。

制約や禁止という形を取ることが、適切な場合があることは間違いありません。しかし、そうでない場合もあるはずです。
子供のうちは大人の管理のもとに行動させることも必要なので、その中で禁止事項が多いのは当然という考え方はあると思います。しかしそれとは逆に、危険性も承知した上で、正しい使い方や行動を教えることが教育だということも言われます。

どちらも間違っていないと思いますが、最近は少子化傾向で子供たちの周りにいる大人の数が多いせいか、何かと制約や禁止という指導に傾きがちな気がしています。
もちろん、それ自体が問題行動である場合は、その行為を禁止するのは当然のことです。万引きその他の犯罪行為や法律違反、飲酒やタバコといった若年層ゆえの健康に関することもそれにあたると思います。

一方で、ただ危険があるから、失敗の恐れがあるから禁止するという考え方では、何もできなくなってしまいます。
刃物を使えば手を切ったり人を傷つけたりするかもしれませんし、スポーツにはケガの恐れがあります。病気がうつるかもしれないから人ごみには行かない方が良いし、有害な情報に接しないために、テレビもラジオもインターネットも避けた方が良いということになります。

この件に関して思うのは、例えば「自転車に乗るな」などというように、使わない、やらないなど、行動の制約や禁止だけで問題を回避することには限度があるということです。道具やノウハウやシステムを活用しながら、事故が起こらない対応策を考えるべきだと思います。

子供だけに限らず、企業などの大人の世界でも、このように行動自体を制約したり禁止したりすることで、問題発生を防ごうとすることは少なくないと思います。
 例えば、パソコンや資料の持ち出しが禁止されている会社があります。セキュリティ対策ということですが、モバイルツールが発達した現在のIT環境を考えると非効率な面もかなり多いと思います。

接待活動禁止という会社があります。不適切な関係を防ぐためだそうですが、望ましい関係作りも阻害している可能性があります。

少し話は違いますが、上司が部下に「ミスをしないように!」などと指示することがあります。しかしそもそもミスをしたい人がいるわけはありません。
こういう時は、「気をつけろ」などという行動の制約や禁止よりも、「こうすればミスがなくなる」という対策に向けた行動を指示した方が効果的だと言われます。

何か問題が起こると、その事象そのものを排除しようと考えることは多いと思います。不可逆的なことが想定されるなら、そんな制約や禁止が望ましい時はあります。ただ、制約や禁止ではベストの解決策にならないことがあります。

ただ制約や禁止をするよりも、どんな行動、どんな対策をすれば良いのかを考えることが、より正しい方法につながることが多いのではないかと思います。


2014年10月3日金曜日

黒字企業でもリストラする時代に考えたい、働く上での「危機感」と「安定感」


「黒字なのに2割クビは納得できるか」というウェブ記事を見ました。
日本の大手企業のリストラがじわじわ増えており、しかもそれが好業績の企業であっても、利益が出ているうちに不採算部門を整理するなど、リストラに躊躇しなくなっているのだそうです。

景気に関係なくリストラが恒常化すれば、会社業績に関わらず、低評価の社員は常にリストラ候補と見られるようになるので、貢献度が低いままで会社にとどまることはできなくなっていくだろうということでした。

働く人にプロフェッショナル意識が求められ、仕事の結果が自分に降りかかっているというのは当たり前のことだと思いますが、どんな人でもこれからはさらに「危機感」を持って仕事に取り組んでいく必要があるということでしょう。

その一方で組織に属して働くことには、このリスクを避けて身分を安定させるという目的もあると思います。組織内の分業によってお互いがサポートし合い、一人ではこなしきれないような大きな仕事に取り組むことができます。成功の報酬はみんなで分け合い、失敗の損失もみんなで少しずつ分担し合うという「保険」のような面もあるはずです。

また日本企業では、社員と長期的な雇用を約束するかわりに、処遇面などの長期的な貸し借りをすることでバランスを保ってきました。終身雇用も年功序列もS字型の賃金カーブも、みんなこのバランスが前提の仕組みです。
若いうちは給料が安いのに頑張るのも、働かないオジサンがいるのも、「今をガマンすれば・・・」「今までガマンしたから・・・」という貸し借りがあることにも一因があるでしょう。
「安定感」というメリットがあるおかげで、みんな組織への帰属意識を高め、多少不本意な仕事でも一生懸命に取り組むのだと思います。

しかし、環境の厳しさも不透明感も増している昨今では、会社の方では、そんなに先のことまで約束する余裕はなくなっています。できるだけ貸し借りは少なくしようというのが今の動きなのだろうと思います。
一方で社員の立場からすれば、「今までさんざん会社に貢献してきた」という考え方をはじめとして、会社にまだまだ貸しがあるという認識があるように思います。
このお互いの認識の違いから、いろいろな所で不整合が起こってきているのでしょう。

私がいろいろな企業の現場を見ている中でも、「危機感が足りない」「役割を果たしていない」と言われても仕方がない社員を見かけることは確かにあります。自分のキャリアを人任せにするなと思うことは多々あります。

その一方で、会社側から「危機感」を持てと社員を鼓舞する声はたくさん出てくるものの、今まで「安定感」を担保にして、社員に借りを作ってきたという話はほとんど出て来ません。
会社からすれば「もう十分に借りは返した」と思っているのかもしれませんが、社員からすると「今までの貸しを踏み倒された」と思っているかもしれません。

「危機感」と「安定感」に、適切なバランスがあるのかどうかは、今一つはっきりわかりません。
「危機感」が足りず、甘えて会社にしがみついているような社員も残念ながらいるでしょう。ただ、「安定感」を約束する代わりに、社員に無理を強いてきた部分もあります。会社に依存する人を作り出した責任の一端は、会社側にもあります。

「危機感」と「安定感」のバランスを見直し、雇用関係の転換を図っていこうとするならば、これまでの経緯も、もう少し考える責任があるのではないかと思います。


2014年10月1日水曜日

「正社員だから」と勝ち負けをいうナンセンス


「ゆるい就職」と称して、若者に「週休4日で15万円」の仕事を紹介する人材派遣サービスが話題になっています。今までとは異なるリズムの働き方として、私は定着すれば面白い試みと思って見ています。

ここに応募する人たちの声として、「週休2日では自分の好きなことなど何もできない」「残業続きで生きるために働くのか、働くために生きるのか分からない」「会社説明会に行っても金もうけ以外に働く目標が見えない」「起業をしたい」「週5日会社に合わせて働く気はない」など、今は当たり前とされている働き方に対して、疑問を呈する声がたくさんあるようです。
「今どき、若い世代が正社員で働くのは負けだと思う」という声もあるようです。

私はここで、勝ちとか負けとかいう話は、あまり意味のないナンセンスなことだと思っています。働き方に対する価値観というのは、人によって捉え方が違うことで、単純な勝ち負けでは切り分けられないと思うからです。

正社員の勝ちの部分と言えば、個人ではできないレベルの仕事ができる、安定した収入が見込める、休んでも所定の範囲では収入があるなどということだろうと思います。よほどおかしなことをしなければクビにはなりませんし、金額はさておき安定した収入を得ることはできます。安定性という面では確かにあるだろうと思います。

一方で負けの部分では、一言で言ってしまえば、自分の意に反して強制される部分があるということでしょう。就業時間、休日、勤務地、その他仕事内容の問題もあります。仕事があってもなくても決められた始業時間に出社しなければなりませんし、仕事内容の選り好みもそうそうできることではありません。自由がきく環境とは言い切れないところがあります。

これをみて、「やっぱり正社員がいい」と思うならば、それはそれで良いことですし、一般的にはそういう人の方が多いのかもしれません。
しかしそんな中でも、仕事をしていく上での優先順位が違う人はいます。自分が自由に使える時間の確保が最優先な人、苦手な人との接触が避けられることが好ましい人、好きな事で生計を立てたいと思う人、仕事をせずに最低限の生活ができればそれで良しとする人など、いろいろだと思います。

いろいろな価値観があるはずなのに、今の国に政策などを見ていると、正社員のような安定した雇用が最も好ましいというような捉え方を感じます。
しかし、もしもみんなが正社員が良いと考えるのだとすれば、「ゆるい就職」などという考え方は出てこないはずです。

私自身は会社勤務から独立して今に至るので、正社員の立場もそれ以外も、両方経験していますが、一概に正社員が良いとは思いません。
今の私の場合、自分の力で仕事を探さなければならない厳しさはありますが、仕事内容や具体的なやり方は、基本的に自分の判断で決めることができます。
安定性は少ないですが、それは自分次第とも言えますし、やりたくない仕事をやらない判断は自分で下す事ができます。働く時間も休日も、基本は自分が決めたリズム次第です。
このどちらが良いのかは、個人個人の価値観によって違うと思います。

自分なりの価値観に応じた仕事の仕方が広まってくるのだとすれば、これはとても良いことではないかと思います。
正社員だから勝ちとか負けとかを言うこと自体、ちょっとナンセンスだと思います。