2014年9月29日月曜日

悪い評価をしない、伝えないことでのトラブル


人間にはそれぞれ個性があり、同じようにそれぞれの能力には違いがあります。会社で仕事をする上でも、その結果も成果もプロセスも、それぞれ違いが出てきます。

そんな中で、もちろん無いに越したことはありませんが、仕事の結果が出ない、成果が乏しい、作業が遅かったりミスが多いなどといった業務プロセスで、能力不足と評価をせざるを得ない社員が出てくる場合はあると思います。
こんなとき、会社側からの本音で、「できれば辞めてもらいたい」などという声が出てくることはしばしばあります。

そもそも解雇規制が厳しい日本の企業では、会社の都合で社員を辞めさせるということには相応の理由が必要ですから、どんな社員であっても簡単には解雇できませんし、会社としてその人を採用した責任もあります。
別の活かし方を考えたり、指導方法の工夫や強化など、簡単に切り捨てずに対処することが大前提ではありますが、会社として、さすがにガマンの限度を超えたと見限ってしまうような状況は、実際には出てきます。その結果として、残念ながら“退職勧奨”というような形になってしまうこともあります。

その際の会社側の言い分を聞くと、確かに戦力として扱えないと考えるのも無理はないと思う部分はありますが、そこで私が良く見かけるのは、人事評価制度などを運用しているにもかかわらず、会社が能力不足と評価していることを、本人にきちんと伝えていないことが、意外に多いということです。

例えば直前に行なった人事評価でも、ほぼ標準か多少のマイナス程度で評価されていたり、評価面談をしても、不足部分の指摘すらしていなかったりします。
ほぼ平均的な評価か、多少のマイナスはあっても落第点とは思えないような評価をされている社員が、いきなり能力不足と言われて退職勧奨などをされたとしたら、これは納得できるはずもありません。

評価を担当する上司に、なぜ相応の評価をしないのかと尋ねると、「この評価項目ではそこまで悪く評価できない」などと制度のせいにしたり、評価面談でフィードバックをしない理由を尋ねると、「やる気を無くさないように」「へそを曲げられては困る」など、あえて伝えない方が良いような言い方をします。目先の軋轢は避けたい、自分が悪役にはなりたくない、というような姿勢を感じます。

これを“マネージャー失格”などと批判するのは簡単ですが、自分だけが嫌われるようなことは、誰でも避けたいと考えるのが人情です。能力不足の社員本人に対して、事実を客観的に伝えることを、マネージャー個人任せにせず、組織として対応することも必要でしょう。

会社と社員が対立するようなトラブルは、はじめはごく些細な感情の行き違いが原因ということが少なくありません。
だからこそ、悪い評価やダメ出しなどの伝えづらいことであっても、客観的事実をもとに組織の立場として本人に伝え、お互いの現状認識を常に合わせておく必要があります。

悪い評価をしない、伝えないということは、もしもの時のトラブルの原因になるということを、肝に銘じておくべきです。


2014年9月26日金曜日

今のままではかみ合いそうにない残業代の議論


「残業代を求める若者は社会をなめているのか?」というウェブ記事を見ました。

日本生産性本部他の団体が、2014年度の新社会人を対象に実施した「働くことの意識」調査での「残業についてどう思うか」という質問に対して、「手当がもらえるからやってもよい」と答えた若者が約7割と過去最高だそうです。一方で「手当にかかわらず仕事だからやる」は下降線をたどっていて今回は2割ほどにとどまったそうで、「残業はいとわないが、それに見合った処遇を求めている傾向がうかがえる」とする報告をまとめています。

これに対してネット上などでは、「給料をもらえない分まで仕事する意味がわからない」などの意見がある一方で、「残業代が欲しいなら、残業代が払えるほど利益を会社に与えろ」「まだロクに仕事も覚えてないのに…」「社会なめすぎ」といった意見もあったようです。
私は残業代は法律で認められたことですし、働かせなければ払う必要がないことなので、新入社員が残業代をもらうことが社会をなめているとは思いませんが、人によっていろいろな捉え方があるようです。

ここ最近は、再びホワイトカラーエグゼンプション(いわゆる労働時間規制の緩和)の話も進みつつありますが、具体的な話になればなるほど、残業代に関する認識は、経営者と労働者の間でさらにギャップが深まっている気がします。

私は人事という立場に関わってきましたので、残業に関する問題は常に身近にありました。
残業代に関する話でいつも思っていたのは、どんな人に聞いても「自分以外の誰かの働き方に問題がある」という話になってしまうことでした。

経営者の場合は、「残業するのは仕事の効率が悪いからだ」「必要な残業があるのはわかるが、それも含めた総合的な成果に対して報酬を払うべきだ」などとおっしゃる方がほとんどです。「だらだら時間ばかりかけて仕事をする奴に余分な給料なんて払いたくない」というのが本音ではないかと思います。

経営者自身が時間換算で働くことは基本的にありませんから、「労働時間に応じた報酬」という考え方自体が受け入れがたいようで、今の経営者団体の労働時間法制に関する主張も、ほぼ同じようなニュアンスを感じます。

この話を社員に向けてみると、やはりほとんどの人は、「ムダな残業はするべきでない」「仕事ができない人間の給料が増えるのは納得できない」と言います。
そして「大した仕事もないはずなのに、何で毎日遅くまで残っているのか」「生活残業ではないか」などと他人の仕事ぶりを指摘しますが、そんな人に「では自分は・・・?」と問いかけると、自分自身が非効率な残業をしているという人はまずいません。他人の残業は生活残業や非効率な残業で、自分の残業は仕事量に応じたやむを得ない残業ということのようです。

こうやってみると、経営者の主張も、社員の指摘も、どうも「自分以外の誰かが悪い」と言い合っているだけに思えてしまいます。また、自分の立場中心の話ばかりをしている感じがします。
残業代など払う気もないブラック企業も、非効率な働き方で残業代を稼ぐ社員もいるでしょうが、それは一部に限られた話です。しかし、こんな極端な例も含めて、経営者と労働者がそれぞれ都合の良い解釈で、良いとか悪いとかという話をしています。
今のままで話を続けても、きっとかみ合わずに中途半端な落としどころで終わってしまうように思います。

経営者が経営効率を求めるのは当たり前ですし、労働法で決まっている通りの残業代を払うことも、これまた当たり前のことです。ただ、お互いの利益主張ばかりでなく、もう少し建設的な議論ができないものかと思います。


2014年9月24日水曜日

「企業の適材適所」と「個人のキャリア」はなぜかみ合わないか?


今ごろの時期は、年度末と並んで企業や様々な組織での人事異動が多い時期ではないかと思います。

この人事異動の際によく言われるのは、「適材適所」ということです。言葉の意味を調べると、「その人の適性や能力に応じて、それに ふさわしい地位・仕事に就かせること」とあります。組織の機能化、効率化を進める上で、「適材適所」というのは重要な要素の中の一つだと思います。

人事異動には、いろいろな種類があります。役割が変わる部分では、昇格も降格もありますし、部署異動や仕事内容の変更においては、栄転も左遷も横滑りもあります。
組織にとっては大切な「適材適所」も、個人の立場からすれば、迷惑なことや不本意なことがたくさんあり、まさに翻弄されている感じがしますが、それは結局のところ、「適材適所は他人が決めること」だからです。
個人のキャリアをどうするかということよりも、組織の都合が優先されるわけですが、組織に属している限りは、これもやむを得ないことでしょう。

このような人事異動が受け入れられてきた大きな理由には、終身雇用をはじめとする雇用の維持と、年次とともに役職や給料が上がる年功序列の前提があります。多少の無理強いであっても、最後は会社がどうにかしてくれるから、言いなりに受け入れておけば良かったという面がありました。
ただ、最近はこの前提を維持することが、大手企業であっても難しくなってきています。また、社員の側もそれがわかってきていますから、不本意な仕事に対しては、それを受け入れずに転職という選択をする人も多くなりました。

にもかかわらず、人事異動に関する会社側の意識は、組織の都合優先の「適材適所」から脱していないように思います。もっと組織の都合と個人のキャリアを合わせて行かなければ、様々な弊害が出てきます。
個人のキャリアに注目しない異動を繰り返すことで、キャリア意識を持った優秀な人材が社外に流出し、自分のキャリアを人任せにしている意識の低い人材が社内に残りやすくなります。社内価値しか持たないゼネラリストや、専門範囲が狭すぎるスペシャリストが増える恐れがあり、会社自身が活用しづらい人材を次々と生み出しているようなことになりかねません。

最近は、「自社に必要な人材要件を見極め、その選抜や能力開発を戦略的に進める取り組み」として、「タレントマネジメント」が注目されています。
組織で考える「適材適所」「個人のキャリア」を合わせるのは難しいことですが、その重要性はこれからもますます増していきます。そのことはしっかりと認識していく必要があると思います。


2014年9月22日月曜日

若手社員が会社の電話を取ろうとしない、2つの意外な理由


以前このブログで、若手社員が電話応対を苦手としている話を書いたことがあります。

最近読んだウェブ記事で、この話と少し関連するような、若手社員の電話応対に関するものがありました。私が感じていることとの共通点もありましたが、その記事の中には「若手社員が会社の電話を取ろうとしない理由」が挙げられており、そのうちのいくつで「それはどうなの・・・」という思いと、一概にダメ出しばかりしきれない、悩ましい思いが交錯してしまうようなものがありました。

どんなことかというと、一つ目は、彼らにとって電話というのは、「知っている相手から自分あてにかかってくるもの」という認識であり、“知らない人” “会ったことがない人”からかかってきた電話で“いきなり話すこと”はあまりにもハードルが高いということでした。

産まれた時から身の回りに携帯電話があり、幼少期からそれを使っていた世代ですから、他人の電話を取り次ぐ機会はほとんどなかったでしょう。
ここまでは当然といえば当然ですが、さらに持っている意識として、家にある電話は基本的にセールスなどの無用な電話が大半であり、「ナンバーディスプレイを見て知らない番号には出ない」など、特に子どもは応対させないように教えている家庭もあって、そもそも“固定電話は自分が出るものではない”という意識があるのだそうです。

確かに我が家でも、子供が小さい頃は「知らない番号からの電話には出なくて良い」などといっていたことはありますが、その意識を持ったまま成長すれば、よけいな電話に出たくないと思ってしまうのは当たり前かもしれないと思いました。

もう一つは、電話というのは自分個人が使うか、共有するとしても家族や友人などの親しい関係だけであり、会社で中高年の上司やその他の誰かが、口や耳を近づけていたものを触ることが生理的に嫌だという話でした。

そう言われると、確かに会社の電話はいろいろな人が使いますし、受話器が耳に触れ、口を近づけて話すということでは、あまり清潔とは言えない気がしてしまいます。
臭いや汚れに敏感で、除菌グッズがたくさん売れる今の時代ですから、もしも自分の部下からこんなことを言われたとして、それでも「これは仕事だから我慢して電話に出ろ!」とは、少なくとも私はなかなか言えないです。

こんな現状から見えるように、電話というコミュニケーションツールのパーソナル化は、これからもますます進んで行くと思います。そんな中で、会社としての電話の使い方も、今までのように「固定電話を複数の人で共用する」という方法は、考え直していく必要があるように思います。

ただこれも、「全社員に携帯電話を配る」などという単純なことではないと思います。会社に関係するコミュニケーションが、パーソナル化され過ぎてしまうことによる弊害もあるでしょう。

実は結構工夫が必要な課題であると思います。


2014年9月19日金曜日

不満分子は転職してもやっぱり不満分子


会社への不満というのは、社員であれば誰でも何かしらは持っているものだと思います。ただ、これも度が過ぎてくると、「不満分子」という表現になってしまいます。

「不満分子」の定義をはっきり言うのは難しいですが、「一方的な自分の都合ばかりを攻撃的に主張する」などということになるのではないでしょうか。

これはある会社であったことですが、請け負っていたプロジェクトに協力会社から参画していた人から、今の会社を辞めたいがプロジェクトの仕事は続けたいので、その会社に移籍させてほしいという打診があったそうです。
話を聞くと、現職の協力会社では社員に対する扱いが悪く、いろいろ待遇面の不満があるそうで、改善提案をしてきたが聞く耳を持ってもらえず、ことごとく受け入れられないのだそうです。

ずっと退職したいと考えていたが、今辞めるとプロジェクトにも迷惑がかかるし、仕事は面白いので何とか最後まで完遂したい、そのために自分を社員として雇ってくれないかという話でした。

プロジェクトの事情を考えると、人員の入れ替えは確かに面倒ですし、その人の働きぶりもピカイチではありませんが、それなりに仕事はこなしています。そんな訳で自社に受け入れることを決め、協力会社には義理を通すべく、この一連の話をしたそうです。

先方の協力会社の反応はやけにあっさりしていて、問題なく移籍する運びとなりますが、その際に「そちらは本当に大丈夫ですか?」などと聞かれたり、本人と具体的な入社準備を始めてからも何かと要望や条件が多かったりするので、対応しながらも何となく気になっていたそうです。

そして実際に入社した後の様子がどうかといえば、「会社や上司からの指示に反論が多く、結局やろうとしない」「一方的な要求要望が多く、すぐに会社がおかしいと攻撃する」というようなことが続いたそうです。体調不良を理由にした休みや早退が頻繁で、さすがにこれは他の社員からも総スカンを食らい、結局半年ほどで辞めてしまったそうです。

実は本人が言っていた前職での改善提案は、自己中心的に苦情を言っていただけで、待遇の不満は本人の評価が悪かっただけのことでした。先方の協力会社のあっさりした反応は、「不満分子」の厄介払いができるという安堵だったということは、後々になってわかったことでした。

このケースのように、どこへ行っても結局同じような行動を繰り返す「不満分子」というのは、実際に私が聞いている中でも非常に多いです。人間の本質というのはなかなか変わるものではなく、基本的な行動パターンも簡単には変わらないということです。

これを防ぐ手だての第一は、こういう人を入社させない事ですが、本人の話を善意に解釈してしまったりすると、なかなか排除しきれない部分があります。そもそも数回の面接やテストをした程度で、その人のすべてを知ることなどは不可能です。

しかし、気をつけてみていると、この「不満分子」の要素をすでに持っているような人は、その片鱗が行動の中のどこかに必ず出て来ます。さらにこの例の場合では、先方の協力会社にもう少し話を聞く、初めは契約社員のような形で仕事ぶりを見極めるなどということもできたはずです。

人を採用するということでは、やはりできる限りの観察と情報収集、そして気になることがあれば慎重な対応が必要だと、あらためて思います。


2014年9月17日水曜日

企業にいると意外に少ない「アウェーな経験」


韓国の仁川(インチョン)でアジア大会が行われていますが、それに関する記事の中で“アウェーの洗礼”を報じているものがありました。

主に男子サッカーに関するものでしたが、指定の練習場でロッカールームもシャワーも使えない、選手村の部屋にはエアコンがない、エレベーターも壊れていたりしていて、22階の部屋まで階段を上り下りしているなどということでした。

これが“アウェーの洗礼”なのかは何とも言えませんが、日々予期せぬことが起きる、海外でのこういう不自由な経験がたくましい成長につながるはず、というような話になっていました。

この話から思ったことが、私自身の仕事環境の変化の中で起こったことです。
今の私の仕事環境は、自分が代表者ということもあり、「一人で客先に行って、先方の方々と一緒に仕事をする」「知り合いが誰もいない会合や研修に出向く」「初対面の方とお会いする」というような場面が圧倒的に多くなっています。言ってみればほとんどがアウェーな環境という感じです。

これに対して、自分が独立する前の会社員時代のことを思うと、当時はほとんどがホームといえるような環境だったと思います。取引先や営業の人は自社に来てくれることの方が多いし、仕事をする中では常に周りに上司や部下、同僚がいます。

どこかへ出かけるとしても、他の人と一緒か、一人であってもそれほどアウェーな感じを持たなくても良いような場所がほとんどでした。部門長としての役割が多くなるにつれ、アウェーな場面は少しずつ増えましたが、それでも今とは比較にならない少なさでした。

もちろん立場や役割や職種による違いはあるでしょう。いきなり一人で海外赴任なんてこともあるでしょうが、それでも企業に属していれば、常に誰か味方がいるという感じがします。「アウェーな経験」の少ない人が大半ではないかと思います。

私も今でこそアウェーな感じは嫌いではなく、逆に未知の経験を楽しみにしていたりしますが、会社にいた当時は全くそうではありませんでした。そもそも知らない人に会って人脈を広げようとも思っていませんでしたし、そんな必要性もあまり感じていませんでした。
必要なのは上司・部下・同僚、その他関係先の既知の人たちとうまく交流することで、その方が仕事上のメリットも大きかったということです。

最近ある方からうかがったお話で、大企業にいる人ほど内向きな価値観が身に付いてしまっていて、いざ転職や出向などで社外に出ても、なかなかうまくいかないことが多いということを聞きましたが、実はこれも「アウェーな経験」が少ないからではないかと思いました。

大企業であればあるほど、ほとんどのことが自社内で帰結できますし、社外との交流も自分たちの方が強い立場のことが多いでしょう。また、辞めずにずっと定年まで働こうという人が大半ですから、社内での人間関係が最も大事なことになります。なおさら「アウェーな経験」は不要ですから、仕方がないのかもしれません。

ただ、先行きが不透明なこれからの時代は、そうはいかないと思います。自分の成長のために「アウェーな経験」が必要なことは、スポーツの世界に限らないことです。

そうは言っても、企業に属していると、「アウェーな経験」をする機会は少ないかもしれません。それをあえて経験する取り組みを、自分で意識することが必要になってきているように思います。


2014年9月15日月曜日

スウェーデン有権者の増税支持に思う「目標の合致」と「目標の相反」


北欧のスウェーデンでは、直近の総選挙に向けて最大野党が増税を訴えて支持を拡大し、減税を続けていた与党も増税を主張するという珍しい選挙戦なのだそうです。

過去の経済危機から、有権者の間で財政規律を重視する意識が強く、「福祉や教育にお金を使い続けるには、高い税金が伴うこと」を有権者が認識しているとのことで、現政権が「福祉が充実しすぎると働かない人が増える」として進めてきた中福祉・中負担路線への不満もあるのだそうです。高福祉・高負担に回帰する兆しと言われているようです。

スウェーデンの有権者が、なぜ増税を支持できるのかを考えてみると、負担した税にふさわしいだけの福祉や教育、その他行政サービスが自分に返ってくることとそのメリットを、身をもって知っているからだと思います。税負担という痛みに見合うだけ、もしくはそれに余りある安心や快適さが得られればこその増税支持、容認なのだと思います。
政治と有権者双方の、「目標が合致している」と言えるのかもしれません。

このあたりは日本の増税論議とは大違いです。
日本の場合も財政問題は大きいですが、増税に関しては、残念ながらスウェーデンのような支持はありません。負担増に見合ったものが返ってくるとは思えませんし、そもそも税金の使われ方が不透明で、それが適切なのかはよくわかりません。政治への信頼感という問題も大きいでしょう。
増税が有権者にとっては痛みしか見えないため、政治と有権者の間で「目標が相反している」のだと思います。

この「目標の相反」ということは、会社と社員の関係においても起こりがちなことです。

会社の中で何が増税に該当するかを考えてみると、社員が会社に直接お金を渡すことは基本的にはありませんから、昇給停止や賞与削減、時間当たりの生産性向上、経費節減努力、サービス残業などがそれに相当しそうな感じです。
社員への見返りということでは、業績向上や収支改善による雇用の安定や給与アップ、福利厚生の充実などがこれにあたるのでしょうが、社員の努力や協力が、必ずしもこの形で見返りとして反映されるとは限りません。

会社や一部経営陣にとってはメリットになるが、社員にとっては痛みしかないということは、特に最近のブラック企業問題などをはじめとして、いろいろな場面で見かけることが多くなった感じがします。ただ、このような会社と社員の「目標の相反」は、長い目で見るとどちらのメリットにもなりません。

私は、このスウェーデンの有権者の増税支持を企業に置き換えて考えて見た時、結局は会社と社員の双方のメリットになるような「目標の合致」が重要ということなのだと思います。それは社員に対してどのようなメリットを提示できるかが大きな要素であり、それが理解されればお互いの目標が合致され、改革改善が進めやすくなるということです。
スウェーデンに見習わなくてはならないところが、少しはあるように感じます。


2014年9月12日金曜日

何が役立つかは計算できない「過去の経験」


ある異業種交流会に参加した時のことですが、ものすごく緊張した様子で名刺交換をされている方がいらっしゃいました。

聞けば見知らぬ人ばかりが集まるそのような会に参加するのは初めての経験で、何を話せばよいのか、どう対応すれば良いのかもよくわからず、「失礼がないように」「笑顔で」などと考えていたら、さらにどんどん緊張してきてしまったのだそうです。初体験ということなので、まあ無理もないことでしょう。

実は私自身は、交流会に対してこういう緊張感を持った経験がなく、「緊張する」という人の話を聞いて初めて、「ああそういう人もいるのか」と気づいたくらいです。
これは私が単に図太いということだけでなく、独立して仕事を始める前の会社員時代から、この手の交流会に参加する機会がたくさんあったからです。人事という役割から来る偶然の産物ですが、主に求人先の企業を集めた大学主催の交流会、いろいろな企業の人事が集まるイベントのような交流会などが、重なる時は月に2,3回はありましたから、その経験を通じて自然に慣れてしまっていたということです。
その当時はたいして何も思わずに取り組んでいたことですが、その経験が後になって思いがけずに役に立っていたということです。

こういうことは社会人経験を持つ人であれば、多かれ少なかれ誰でもあると思います。学生時代のアルバイト経験や、趣味で取り組んでいたことの知識が、ある日突然仕事とのかかわりが出てきて役に立ったなどということがあるのではないでしょうか。

ただ、こういうことに対して、私が最近少し気になるのは、「将来役に立つことを学びたい」「後で役に立つような経験をしたい」など、先読みをする傾向が少し強くなっているのではないかということです。

将来を見据えて計画的に経験を積もうとすることが大事な面はありますが、今後役に立ちそうなことを先読みすると、結局は今やっていることの延長線上から離れられず、機会を限定したり取り組みを選別したりすることになりがちです。
しかし、実際には、いつどこで、どんなことがどんな場面で役に立つかはわかりません。

これはある会社でうかがったことですが、自社として初めて新製品発表会を大々的に催すことになったが、誰も経験したことがないので、何をどうしたら良いのかの見当もつかずに困っていたところ、たまたま社員の中に学生時代にイベント運営のアルバイトをしていたという者がいて、その社員が昔の経験を活かして全面的にイベントを仕切り、非常にスムーズに進めることができたのだそうです。

過去の経験は、何がいつどんな時に役立つかは、そうそう計算できるものではありません。あまり先読みばかりぜずに、幅広くいろいろなことに取り組んでいくことが正解という考え方もあるように思います。

2014年9月10日水曜日

「企業の人事戦略」に見えてしまう過去からの先入観


このところ、人が採れない、人手不足とおっしゃる企業が急に増えてきました。
そのための人件費高騰、人が集まらないことによる店舗閉鎖や売上減などにより、人手不足倒産という話も聞こえ始めています。

そんな中でも、企業から出てくる求人要件を見ていると、業種や職種を問わず、年齢でいえば20代後半から30代前半までの若手人材を求めていることがほとんどです。まぁ相変わらずといえば相変わらずです。

私の出身業界ということで関わることが多いIT系の企業でもこの傾向が強く、シニアの技術者は「顧客にあまり歓迎されない」「扱いづらい」「コスト高である」などという話が良く出て来ます。
会社側の本音も、シニア人材を活用するというよりは避けたい意識の方が強く、結局求めている人材像の大半は、「5年以上の経験がある若手技術者で、できれば男性主体」という画一的なもののようです。

いろいろな企業の方々に人材に関する話を聞くと、「現状の男女比を大きくは変えたくない」「年齢構成をピラミッドで保ちたい」「できれば新卒中心で」「できれば男性で」など、旧来からの価値観で話される方はまだまだ多いです。
ただ、日本の少子高齢化、人口減少というマクロ的な状況を考えれば、これらを維持していくのは相当に困難なことです。

このあたりの対応策として、女性やシニア世代、外国人の活用などが言われますが、では思ったらすぐできるのかというと、事はそれほど簡単ではありません。、

例えば、子育て世代の女性では、就業可能な時間に制約がありますし、子供の急病などで突発的に休まざるを得ないこともありますから、仕事自体の分業と組織内でお互いがフォローし合う体制づくりが必要になります。属人的な仕事のやり方では立ち行きません。

シニア人材であれば、これまで培った経験をどのように活かしてもらうかという観点になりますから、どんな役割を期待し、実際にどんな仕事をやってもらうかという業務内容とのマッチングが重要になります。そうでなければ、単に期待外れというレッテルが貼られてしまいます。

外国人の場合は、言葉の壁や文化の違いがありますから、それらを理解した上での労務管理やマネジメントなど、それなりのノウハウが必要です。軌道に乗るまでには相応の時間もかかるでしょう。

他にも、大企業ではバブル期の大量採用に起因して、シニア世代の人余り状況がありますが、他企業への人材シフトはなかなか進みません。比較的高額な報酬、職務経験と期待値のミスマッチ、本人の意識が伴わないなど、原因は一つではありません。

こんな状況を見るにつけ、これからの企業の人事戦略は、これまで自社で考えていた常識から脱却し、発想を大きく切り替えていかなければならない時期なのだと思います。
これまでなんだかんだと理由をつけて受け入れてこなかった人材を、どうやって受け入れ、活かしていくかを考えなければ、人手不足はますます進んで行くでしょう。

これからは選別するというより、どんな仕組みを作り、どんな教育研修を施し、どんな仕事を与えていけば戦力化できるのかを考えていく必要があると思います。人材の流動化、再配置という企業の枠を越えた取り組みも必要でしょう。

「企業の人事戦略」に関わる方々が、まずは率先して発想を切り替えていくことが必要になっているのだと思います。


2014年9月8日月曜日

権限委譲に必要な「さらにもう一歩任せること」


現場への権限委譲の重要性は、一般的にもよく言われることです。

ある事象に対する組織内の判断基準が共有されていて、もしも経営者と一般社員が全く同じ判断ができるほどのレベルであったとしたら、現場にできるだけ多くのことが権限委譲されていた方が、早い判断が可能になり、業務のスピードをはじめとした組織効率を上げることができます。

こんなことから、組織の秩序を守るための最低限の事項だけを職制上の「公式権限」として残し、その他の業務権限はできるだけ末端にまで権限委譲することが、最も望ましい状態であるとも言われます。

権限委譲に関しては、どの経営者や管理者に聞いても、否定的な発言をする人はあまりいませんし、「うちの会社では、できるだけ本人たちに考えさせ、判断させている」「やる気さえあればいろいろな事を任され、主体的に取り組む事ができる」など、自社で積極的に権限委譲しているということをおっしゃる方がたくさんいます。

「できるだけ権限委譲をしていくことが望ましい」という認識は共有されているのだと思いますが、私がいろいろな会社でその実態を拝見していると、この“できるだけ”の部分がなかなか難しいところです。

経営者や管理者が持っているご自身の感覚では、仕事のやり方や判断を、部下にそれなりに権限委譲しているという認識であったとしても、私などから見ると、報告をかなり細かい頻度や内容で求めていたり、ご自身はアドバイスのつもりでも、「こうした方が良い」というような結論を指示していたり、およそ任せているとは言えないような関与の仕方を結構な割合で見かけます。

どこまで権限委譲をすればよいのかは、それが誰に対してなのか、またその時の状況などによっても違いますが、私が多くの会社を見てきた経験で思うのは、「自分が思った線引きから、さらにもう一歩任せてみることが必要ではないか」ということです。

上司からすれば、任せられる部下とそうでない部下は当然いますし、それも白黒はっきりしている訳ではなく、どこまで関わってどこから任せるかは、その時の状況によって違います。
また結果責任は上司にありますから、権限委譲をする、任せるとは言っても、どちらかといえば安全サイドで判断しがちになってしまうと思いますし、そうなってしまうのもやむを得ないでしょう。それほど権限委譲は難しいということだと思います。

ただ、私が見てきた中では、任せ過ぎて失敗したという例より、任せることに慎重すぎて、結果として成長速度が遅くなり、いつまで経っても指示待ちで自立できなくなってしまうという例の方を多く見かける気がします。

本人の能力に比して、背伸びをしなければできないレベルの仕事を経験していくことが、最も成長につながるといいます。それが最終的な業績向上にもつながります。
権限委譲は具体的に考えるほど難しくなっていきますが、経営者や管理者という立場の方々が思うレベルから、さらに一歩踏み込んでみるくらいの意識が、実はちょうど良いのではないかと思います。


2014年9月5日金曜日

社員を恫喝する経営者は「なぜ経営者になったのか」を見失っている


大手エステサロンの社長が、未払い残業代の支給を求めて組合活動をしていることを理由に、ある従業員に対してパワーハラスメントをしたとして問題にされています。

会社側は事実確認ができないと言っているようですが、「会社を潰してもいいのか」「法律どおりにやったらサービス業は上昇しない」などと言っている録音テープなども公表されてしまっています。

この内容を聞いた正直な感想は、実際に私が関わるような中小企業の現場でも、比較的どこでも聞くような発言だということでした。会社によって程度の差はありますが、「残業代なんか払ったら会社がつぶれる」「有給なんかで休ませる余裕はない」などという社長は、正直言って今でもたくさんいます。

実際の厳しい経営状況を見ていると、確かにそういう部分はありますし、気持ちは理解できるところがあります。また個々の社員に目を向ければ、働かない社員、文句ばかりの社員、仕事ができない社員、コスト高の社員などは確かにいますから、個別の事象に対しては、社員にとって厳しい対応を取らざるを得ないこともあります。

そうは言っても残業代や休憩時間、休日休暇といったものは法律で明確に定められていることですし、法律はあくまでも法律なので、やはり社会的責任として守る努力をすべきことです。

今回の問題では、経営者がある社員に対して長時間にわたって恫喝したということですが、そもそも経営者がこういうことをやってしまうのは、「ではあなたはなぜ経営者になったのか」ということを見失っているように感じてしまいます。

会社というのは事業を行うための器であり、経済活動をするためのもの、手っ取り早く言えばお金儲けをするための道具です。社会貢献などの意義もいわれますが、それが第一目的ならば非営利の慈善事業でやれば良い訳で、会社はそういうものではありません。

経営者が会社を興すのは、もちろんいろいろな思いがあると思いますが、資本主義的にいえば「自分自身のお金儲けのため」であり、そのためにリスクを負って投資をし、その会社を通じて事業活動をしている訳です。
社員は「経営者のお金儲け」を手助けして、それに見合う報酬を得ているだけのことであり、経営者にとっては「自分のお金儲け」の片棒を担いでくれる有難い人たちという捉え方もできます。

経営者は市場環境、法律などのルール、その他の制約も踏まえた上で、自分の意志ですべてのリスクを取って会社経営をしているはずです。それなのに、そのリスクの一端を社員に負わせるような恫喝をすること自体、私は他責であると感じ、ご自身が「なぜ経営者になったのか」というそもそもの部分を見失っているように感じてしまいました。

ただ、経営者と社員でこんなことを言い合っていては元も子もありませんから、お互いの立場を尊重しあい、現状を良くしていくことを考えながら事業を進めているのだと思います。会社と従業員の関係は、単なる労務提供とそれに見合う賃金の授受だけでなく、人間関係、仲間意識、社会とのつながり、その他数多くの要素があります。それらがかみ合うことで、顧客満足を生み、事業が発展していきます。

特にサービス業の場合は、一人ひとりの心の余裕がなければ良いサービスはできないと思います。社員にリスク分担を求めるばかりでは、本当の意味で事業が行き詰まってしまうことを心配してしまいます。


2014年9月3日水曜日

「週休2日制が非効率」という話と「大リーグ投手の投球間隔」の話


1週間のうち5日働いて2日休むというサイクルで働く「週休2日制」というのが、今の企業では一般的な勤務形態だと思います。
しかし最近は、「週4日労働制」を導入するような企業が出始めているそうです。従業員の健康にも良く、仕事の効率も高まったということだそうです。

そもそも1年365日というのは、地球が太陽の周りを1周する自然な周期ですが、自然現象が7日間ごとに生じる訳ではなく、1週間が7日間であることは人工の周期であり、これを基準にしたサイクルというのは不自然なのだそうです。

この働き方のペースについてはいろいろな研究結果があり、週に55時間働いた人は、週40時間しか働かなかった人に比べて知的作業の効率が下がってしまうとか、人は休憩の後の90分間に爆発的な集中を得ることができるので、労働時間を減らして休憩を多く挟むことで、ただ長時間働くよりも効率的に仕事ができる、などということがあるようです。

グーグル社のCEOは、自社では実行していないものの「週4日労働制」を推奨していたり、あるIT会社では、従業員に対して1年間の半分は「週4日労働、週32時間」という勤務体系を採用していたりするそうです。

このように、効率的な働き方というのは、単に休みを増やしたり時間数を制限したりするだけではなく、どんな時間配分で働いてどんなペースで休むかなど、その中身によってずいぶん影響があるということです。

この話題から思ったのは、つい先日に米大リーグレンジャースのダルビッシュ有投手が話していた、ピッチャーの投球間隔に関する話との共通点です。

大リーグの先発投手というのは、1試合の投球数を100球前後に制限し、中4日間隔のローテーションで登板が回ってきます。彼は、多くの投手がひじの靱帯損傷による腱移植手術を受けている現状から、この投球間隔に関する意見を述べています。

1試合の球数を制限して負担を軽減することが主流となっている現状に対して、「球数はほとんど関係ないと思う。120球、140球投げても、中6日あれば靭帯の炎症は全部取れる」と言っています。「ある程度まとめて長い時間働くことは問題ないが、それをリカバーするのに見合うだけの休息時間が必要である」ということです。

今回の「週4日労働制」で紹介されている事例の中には、1日10時間労働での4日勤務というものもありました。同じ週40時間でも、勤務時間と休日の配分によって仕事の効率が変わってくるということです。

「週40時間の週休2日制」など、固定概念化してしまっている感がある「人が働くペース・サイクル」について、本当の意味での効率を念頭に置いて、少し大胆に見直しても良い時期なのかもしれません。
日本の場合はその前に、長時間残業や有休未消化などの問題がありますが、仕事の効率を基準において考えれば、もしかするとこのあたりの解決にもつなげられるかもしれないと思います。


2014年9月1日月曜日

結果優先主義の行き過ぎを感じる「宿題代行サービス」


夏休みの「宿題代行サービス」が話題になっているそうで、“宿題代行”とネット検索すると多くの業者が存在しているようです。

「子どもの学力を奪うごまかし」「お金でなんでもできるという歪んだ価値観を子どもに植え付ける」「教育犯罪そのもの」と厳しく批判する声が挙がっているようです。

こういう業者があること自体に驚きはありますが、確かに依頼しそう人がいるだろうということは想像できます。もし自分の子供時代にこういう話を聞いたとしたら、「頼めば楽だなぁ」と真剣に思っただろうし、依頼したいと思ったかもしれません。

私が思うに、結局は何を優先するかの捉え方の違いによって、こういうものが商売にまでなってしまうのでしょう。この根底にあるのは極端な「結果優先主義」だと思います。

学校の宿題というのは、各自の学力向上が主な目的であるはずです。そのためには、実際にその宿題に本人が取り組むというプロセスが重要であるはずです。
ただし、これを「宿題が良い出来で終わっている」ということだけを優先すれば、途中どんな取り組み方をしたかというプロセスは関係なくなります。誰がやっても、どんなやり方をしても、評価される内容で提出されればそれで良いという考え方です。悪い意味での「結果優先主義」といえると思います。

ここから私が思い起こすのは、企業において旧来の成果主義がうまくいかなくなった頃のことです。
「結果を重視する」というお題目のもとに、目先に見える結果ばかりで評価をするようになり、プロセスを軽視し、人材育成をはじめとする中長期の取り組みは後回しになり、数値目標ばかりを追いかけるようになった結果、こういうやり方ではダメだという揺り戻しが起こってしまいました。

私は成果主義という考え方自体は良いことと捉えていましたが、「何を成果とするか」という点が適切でなかったために、うまくいかなかったのだと思っています。
最近あらためて進められている成果主義は、このあたりの反省が含まれているので、かつての物よりは、ずいぶんマシになってきていると思います。

今回話題になり、批判されている「宿題代行サービス」も、期限までに適切なものを作り上げるということを最優先にすれば、当然あり得ることだと思います。いくら批判されても、これで良しとするような親子はいるでしょう。

「宿題代行サービス」は、かつてうまくいかなかった成果主義と、同じ根を持つ事柄のように思えて仕方がありません。