2014年11月10日月曜日

罰を受けることが「責任を取ること」なのか?


大阪観光局が今年4月に開催した国際音楽イベントで、約9400万円の赤字を出してしまい、うち2700万円を実行委員長だった局長が、自費で補填していることがわかったそうです。
イベント計画や収益予想などは外部業者任せで、チケット収入が見通しの2割に低迷するなど、チェック機能が働いていない面があったようで、「税金には手をつけられない」というのが自費補填した理由のようです。

この大阪観光局は、大阪府と市、地元財界が出資して設立された組織とのことで、大阪市長などは今回の件を、「すごい責任の取り方だ」などと評価しているようですが、議会からは「自己負担したからといって責任を取ったことにはならない」などと批判する声も上がっているようです。

人間が社会生活をする中で、何か行動を起こせば、そこには何かしらの責任が発生します。それに対して「失敗したら責任が取れるのか」などと問いかけられたり、起きてしまった失敗や不祥事に対して、「責任を取れ!」と責められたりすることがありますが、具体的に何をどうしたら「責任を取ること」になるのかを考えると、意外に難しい気がします。

例えば、会社で仕事上の失敗をしてしまったとして、「責任を取ること」を考えたとしたら、いったいどんな方法があるでしょうか。

一般的にみられるのは、まず謝罪から始まり、以降は失敗の情状に応じて減俸や降格、左遷のような異動、それでもだめなら最終的には辞職となることが多いと思います。この流れというのは、実は就業規則などに書かれている懲戒処分の流れと、とても良く似ています。「責任を取ること」イコール「自分自身に課す懲戒処分」のようになってしまっていると思います。

しかし、これが本当の意味で「責任を取ること」になっているのかを考えると、私はどうもしっくりきません。

自分の行動で引き起こした失敗に対しては、金銭的な損失を補てんしなければならないことも確かにあるでしょうし、自分がいなくなることでしか解決できない状況であれば、辞職することもやむを得ないでしょう。

ただ、本来あるべき「責任を取ること」というのは、それだけではないと思います。
「責任を取ること」の中には、「失敗を反省すること」「失敗から学ぶこと」「失敗を次に活かすこと」など、失敗にどう向き合うかという内面的、精神的な部分があります。そこに向き合う姿勢や態度といった、周りの人たちから見た主観的な部分もあります。

どうも最近は、罰を受ければそれで責任を取ったことにしてしまう傾向が強く、謝ればよい、お金を払えばよい、辞めればよいというような、「罰さえ受ければ責任は取った」と開き直ってしまう風潮を感じることがあります。

したくてもできない状況はもちろんあるでしょうが、自分の失敗に真摯に向き合い続けることこそが、本当の意味で「責任を取ること」になるのではないかと思います。


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