2014年10月10日金曜日

人が評価をする限り「主観はなくせない」という前提


体操の世界選手権が中国で行われ、男子団体は最終種目の鉄棒で逆転されてしまい、残念ながら銀メダルとなりました。
この結果に関しては、間違っている、不公平といった批判的なものから、妥当であったというもの、さらには採点基準などのルールが変わった影響などを分析的に述べているものまでいろいろありました。
自国の選手には、ついつい肩入れしするものですし、負けたとなれば文句の一つも言いたくなるのが人情でしょう。いずれにしても採点競技というのはなかなか難しいものだと思います。
 
少し次元は違いますが、同じく採点に関する話ということで、ある会社で部下に対する人事評価結果を、評価者である上長にヒアリングをした時のことです。

同じ等級レベルの社員でも評価の差は当然ありますが、その中に本人評価をさらに下げた悪い評価と、本人評価をさらにあげた良い評価をされている者がいました。
その理由を尋ねたところでの評価者の反応は、悪い評価を下した者ではできなかったことや足りなかった事柄がたくさん挙げられ、良い評価を下した者では逆にできたことや頑張ったこと、成果が出たことが多く挙げられました。どうも思い込みも含めた、「一事が万事」という見方になってしまっているようでした。

このあたりを指摘した上で、あらためて評価結果を見直すことになりましたが、こういうことは会社の中では往々にしてあるのではないかと思います。
こんなことに対して、「評価基準がはっきりしない制度が悪い」「評価者のスキルが足りないことが問題」などと指摘されることも多いでしょう。それぞれ間違った指摘ではないと思います。

もしもここで、「評価基準をはっきりさせる」としたとき、誰が評価しても同じ結果になるようにするためには、すべて明確に数値などで表現できる評価基準にするしかありません。
しかし、普通に行われているビジネスの中では、数値には置き換えられない非定型的な仕事内容が大半を占めます。基準を明確にすることにはおのずと限界があります。

また、評価者スキルも、教育訓練や実施した結果の振り返りなどを通じて、向上させていくことはできますが、それでも絶対に評価者格差がないというレベルに達することはありません。

前述の体操競技でも、世界選手権で審判を担うような、教育もされて経験を積んできた人たちが、限られた時間内に直接自分の目で見ることができる演技を審査していたにもかかわらず、審判ごとの点数差は必ず出てきます。主観による判断の違いがどこかに出てしまうということです。

これが人事評価となれば、まったく異なる業務をしている人たちを、直接には見ていない部分も含めて評価しなければなりません。場合によっては教育が十分でない人が評価者になることもあり得ます。主観が入る余地はさらに大きいということでしょう。

こうやって見ると、どんなプロフェッショナルであっても、人が人を評価しようとする限り、主観は絶対に排除できないということです。
 主観をできるだけ少なくする努力は必要ですが、評価という行為をする上では「主観はなくせないもの」という意識が必要だと思います。その前提で制度を組み立てなければならないし、結果もその前提で使わなければなりません。

評価というと、主観をなくす努力が強調されますが、「主観はなくせない」という前提で、制度や運用を考える方が、結局は現実的ではないかと思います。


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