2014年6月9日月曜日

「こんなの常識!」で片付けてしまう思考停止


自分の常識に照らしてみて、相手の行動がどうしても受け入れがたい時があると思います。年齢に差がある関係の間では起こりがちで、礼儀作法に関することが多いようです。

最近うかがった話ですが、ある会社の社長が、電話応対がなかなかスムーズにできない新入社員を指して、「これくらいのことは常識だと思うんだがなぁ…。」という愚痴をこぼしていたそうです。

ただ、子供の頃から自分専用の携帯電話を持っている今のような時代では、他人に電話を取り次ぐなどということを、もしかすると今までの人生で一度もしたことがないようなことも考えられます。日常生活の中では、電話応対を経験できなくなっていると考えると、もはやこれを常識というのは難しいかもしれません。

私も、特に公共マナーや食事のマナーなどでは他人の行動が気になることがありますが、これは必ずしも若いからダメなどということではありません。喫煙マナーや電車内での携帯電話のマナーなどは、どちらかといえば中高年以上と思われる人たちの方が、あまり良くないように思います。ただ、これもあくまで私が常識と考えている中で思っていることなので、他の人から見れば、また感じ方は違うのでしょう。

以前、中国で行われた卓球の世界大会で、観客のマナーについて書かれた記事を読んだことがあります。なんでも試合会場がとてもうるさいらしく、携帯の着信音はあちこちで鳴るし、みんな平気で大声で話しているし、それを注意する人もほとんどおらず、日本人の感覚からすると、これでは選手が競技に集中できないのではないかと思うほどなのだそうです。

ただその反面、フラッシュ撮影に関してはものすごく厳しく、フラッシュがどこかで少しで光ろうものなら、すぐに係員が飛んできて注意され、周りの観客からも「何をしているんだ!」という非難をされるのだそうです。

どうも、音ということに関してはかなり寛容で、それが競技の妨げになるとはあまり感じず、一方でフラッシュのような視覚的なものに関してはかなり敏感に捉えているということのようで、お国柄によっていろいろな考え方があるという内容の記事でした。

この状況は、私たちの常識とはたぶん違いますが、だからといって「常識がない!」と批判することはできないと思います。
「常識」というのは便利な言葉で、それがみんなにとって共通の価値観と思ってしまいますが、実際には決してそうではなく、仮に100人いれば100通りの常識があるはずです。

ですから「こんなの常識!」と言っているうちは、問題があったとしても何の解決にもならないと思います。
「常識」という言葉を使っての他者批判は、私はただの思考停止でしかないと思います。


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