2013年12月30日月曜日

計画は「し過ぎ」の「無さ過ぎ」も良くない


2013年も終わりということで、自分なりに今年を振り返っています。

私にとっての2013年は、年の初めの頃に想像していたことと、年末の今までに実際にあったことの違いが、ここ数年では一番大きい年でした。良いことも悪いことも両方ですが、年初と今との変化の度合いが、いつもの年より大きかったように思います。

特に人とのつながりは、初めての出会いだけでなく、それまでの関係がより深まったり、旧交が復活したりということが多く、そんな中から想定外に出てきたことがいろいろありました。

私はどちらかというと、しっかり目標を立ててそれに向かって邁進しようという姿勢が少なく、実はあまりはっきりとした計画を立てないタイプです。
コンサルティング業務では、事業計画も人事計画も手掛けますが、自分のこととなると、そもそもの発想が貧困なためか、どうも現状ありきでの今の延長線上の話ばかりになってしまうことと、「絶対これをやろう」とか「必ずやり切る!」とか思うことが、硬直化した決めつけのように思ってしまうので、あまり細かな計画が好きでないということの2点が大きな理由です。どちらかというと、あまりしっかり計画を立てることを、ついつい「無駄なことだ!」と思ってしまうのです。

ただ、今年起こったことを振り返ってみると、ほとんどは自分で取り組んでいたことや行動していたことにつながっています。本当の偶然もありますが、突然降ってわいたような話も、その事情を確かめると、実は自分がやっていたことや仕込んでいたことがベースにあることが大半でした。
たぶんこれは、事前にある程度の想定ができたはずのことも、私にあまりにも計画の意識がないために、それができていなかったということのように思います。計画が「無さ過ぎ」ということです。

一方で、以前お手伝いをしたある会社に、非常に綿密な事業計画を時間をかけて策定する会社がありました。ただこの会社には、環境変化に応じて計画を見直すことができないという弱点がありました。時間をかけて計画を作っているがゆえに、変更しようにも手続きが煩雑だったり、社内調整が難しかったりということがあり、全社的に、何とかして計画変更をせずにすまそうとする風潮がありました。計画が硬直化しているということであり、こちらは、計画の「し過ぎ」ということでしょう。

計画というのは一種のストーリーですが、計画の「し過ぎ」は、硬直化したストーリーで臨機応変な対応ができず、計画の「無さ過ぎ」はストーリーがないために事前想定もできず、進むべき方向もわからずということになりかねません。

いったい何をどこまで計画するかというのは、はっきりした答えがある訳ではありませんが、「し過ぎ」も「無さ過ぎ」も良くないということだけは確かです。
少なくとも私の場合は、もう少し事前に計画をしておくことが必要なようです。次の事業計画は、もう少しきちんと立ててみようと思っています。


2013年12月27日金曜日

「辞める」ではなく「今いる環境を変える」という選択


私も人事という仕事に関わっている立場上、「会社を辞めたい」という相談を受けることがときどきあります、いや・・・、相談というほどでもなく、今がつらい、やりがいがない、上司が信じられない、周りが使えないなどという愚痴のようなことも多いです。

そんな時私は必ず、「今の会社で自分の力で変えられることはないのか?」と聞くことにしています。
私もかつて在籍していた会社を辞めた人間なので、少々説得力に欠けますが、基本的には、「辞める前にできることがあるはず」と思っています。

なぜかというと、会社で働いている限りはどんな人でも、自分が在籍している会社のことを、他のどの会社のことよりも良く知っているはずです。仕事の進め方、それぞれの人の仕事の能力、周りの人間関係、キーマンが誰なのか、会社の問題はどこにあるのか、どんな解決方法が考えられるのか、などなど。少なくとも自分の周りで起こっていることは、いいことも悪いことも含めてすべての情報を持っているはずです。

それにひきかえ、新しい会社への転職は、これらの情報は基本的にすべてリセットになります。今まで嫌だったことやダメだったこと、直らなかった課題などは無くなるでしょうが、同じように今まで活用してきた社内情報も、身近な人脈も同僚もすべて無くなります。そしてこの良い部分は、内部にいると意外に自覚できていないものです。

よく、「会社の看板がなくなって初めて、自分の実力不足を実感した」という話を聞きますが、今やっている仕事の成果が、自分の力か会社のおかげかを切り分けるのは、なかなか難しいことです。大企業で会社のブランド価値が高い人ほど、自分の実力を錯覚しがちというのも、今いる会社の良い部分が自覚しづらいことの一つの証拠です。

それならば、どう転ぶかわからないリスクをはらんだ新しい会社にかけるより、事情をよく知った今の会社を変えられないかを考える方が、可能性があるのではないかと思うのです。
そんな行動が考えられないような会社、意味がないと思われるような会社もあるでしょうが、それならばせめて「これが解決されないならば辞める」など、差し違えの覚悟でもよいと思います。

もちろん転職することで、それまでとは見違えるようにイキイキと働いている人はたくさんいます。ただその一方で、落ち着ける仕事先をなかなか見つけられずに転職を重ね、「やっぱり一番初めの会社が良かったなぁ」などという話を聞くこともあります。

ただ理由もなく「会社は辞めない方が良い」などというつもりは毛頭ありません。辞めて環境を変えなければできないことはたくさんあります。ブラック企業のように、辞める以外にどうしようもないような会社もあります。
でも、今いる会社が普通の会社で、そこでの課題が見えているならば、「辞める」ではなく「今いる環境を変える」という選択もあるのではないかと思います。 


2013年12月25日水曜日

「お試しできっかけを」という話


あるテレビ番組で、若者に消費を促すには「お試しできっかけを与えることが良いのでは」という話がされていました。

これは親や会社の上司、先輩など周囲の人たちの責任もあるが、未知のことを経験する機会が少なくなっていて、なおかつネットの情報などで、持っていないものでも使った気になったり、食べたことがないものも食べた気に、行ったことがないところでも行った気になってしまったりということがあるのだそうです。

既視感、既知感ということらしいですが、それにプラスして失敗しなくない心理の強さもあり、行動に移すことを躊躇したり、やたらと慎重だったりということがあるのだそうです。
これをお試しで使わせる、お試しで食べさせる、お試しで行ってみるということを通じて、消費行動への躊躇を取り除いていくということらしいです。

人事の世界でもこれと同じように感じることはあり、例えば今話題のブラック企業の話では、就活生がそういう会社には入りたくないとネット上の情報を調べ、それが過剰に慎重になり過ぎて、ちょっとでも気になることがあるとなかなか応募に踏み切れない活動すること自体を躊躇してしまうというようなことがあります。

最近は「インターンシップ」の活用が言われますが、これもお試しの一種なので、社会に出ていく不安や躊躇を減らすためということでは、同じようなことなのだろうと思います。

自分の経験で言えば、会社の上司などに自分ではいけないようなお店に連れて行ってもらい、そこにまた行きたいと思うかどうかは別として、そんな経験をしたということが後々で役に立つこともありました。最高級も最安価も知っていれば、幅が認識できるので、自分が遭遇したものが一体どんなレベルのものかという尺度を持つ事ができたのも良いことでした。
今思えば、自分の上の世代の人たちから、何かとお試しの機会をもらっていたということでした。

世代を問わず、人間は未知のことには何らかの不安や躊躇があって当たり前です。買い物に失敗したくないと思えば、事前にできるだけ情報を集めて失敗がないように準備します。さらに実物を実際に試す事ができたら、失敗するという不安や躊躇はなくすことができるでしょう。
これは新しい仕事でも、新しい職場でも、新しい人間関係でも同じことだと思いますし、この「お試し」にあたるような取り組みを、いろいろな形で実施している会社というのは、あまり目立ちませんが実は結構あります。

特に若手社員に対して、「お試しできっかけを」という考え方は、会社の中でも外でも、意外に多くの場面で当てはまるように思います。


2013年12月23日月曜日

社員に「起業家精神」を求めることへのちょっとの違和感


特に中小企業では、社員であっても「起業家精神」を持つべきだとおっしゃる経営者がいらっしゃいます。

「会社で起こることを人任せにしない」
「何でも我がこととして仕事にあたる」
「全体を見渡す広い視野を持つ」
「経営資源(人、モノ、金、情報・・・)を意識する」
「目的意識、コスト意識を持つ」
「組織を率いるリーダーシップ」・・・・.etc

こんなことを主旨に、社員に向けて「起業家精神」を求めます。「自分の食いぶちは自分で稼げ」などといいます。

確かに、「他責にせず、社員に自律を求める」ということには、私も全面的に賛成です。
私自身が組織に属していないからかもしれませんが、サラリーマンとして企業で働いている仲間や友人、後輩たちと話していて、出てくる会社の愚痴などを聞いていると、「そんなら自分でやればいいのに・・・」などとついつい思ってしまいます。(もちろん、会社にいればそう簡単にいかないことも重々承知しています。私もそうでしたし・・・)

ただ、「他責にせず、社員に自律を求める」ことが「起業家精神」なのかといわれると、私はそれにはちょっと違和感があります。
「起業家精神」を持っている人は、基本的には起業したい訳で、組織に残ってその組織の一員として貢献していくということには、あまりつながらないと思うからです。

社員に「起業家精神」を求めるということは、言い換えれば「どんどん独立しろ」とあおっているともいえます。その独立した元社員たちと取引をして、自社のビジネスを広げて行こうというような発想でもあるならば、それはそれでアリだと思いますが、そうでなければただの「人材流出奨励」であり、なおかつ流出していくのは、自社にとっては優秀な人材ということに他ならないでしょう。

強い組織にするために、「他責にせず、社員に自律を求める」ということは、絶対に必要なことですが、あくまで「組織に帰属した上で」という前提があります。
もしも求めた通りに「起業家精神」に目覚めて、結果的に巣立っていく社員がいたとしても、会社が初めからそれを望んでいることは、ほとんどないのではないでしょうか。特に中小企業ではそうだろうと思います。

求める人材像などを、どんな言葉を使って表現するかということは、実は意外に繊細で大事な部分です。
そう考えると、少なくとも社内の人材育成の範疇では、「起業家精神」という言葉は、ちょっとふさわしくないように思います。


2013年12月20日金曜日

何かを始めるには何かをやめなければできない


これから新年に向けて、新たな取り組みを始めようと考えている方も多いと思います。

先日あるところでうかがったお話で、印象に残ったことがあります。
「何かやめたいことがあるならば、やめた部分を埋める新しいことを始めなければならないし、新しいことを始めたいならば、今までやっていた何かをやめなければできない」
というお話でした。

初めは禁煙を例に出され、
「たばこをやめようと思ったら、それまで吸っていた時間を何かで埋めなければやめられない。だからガムをかんだり飴を食べたりすることで埋めようとする」
ということでした。

私がなるほどと思ったのは、その逆に新しいことを始めようとするときの話で、
「みんな新しいことは積み上げ、上乗せばかりで考えるが、与えられている時間は有限であり、始めるかわりにやめることとセットで考えなければ、新しいことはなかなか続けられない」
ということです。

考えてみると、私は最近ブログやその他原稿を書くことが増えましたが、その代わりにテレビを見る時間が圧倒的に減りました。いつも懇意にしている社長さんとたまたま話した中で、「最近ちょっと面白いゲームにはまってしまって、おかげで読書する時間が減ってしまった」なんておっしゃっていました。勉強をするために睡眠時間を削るなんていうことも、たぶん同じようなことです。

一言で言ってしまえば、物事の優先順位づけなのでしょうが、こうやって「何かを始めたら何かをやめる」ということを、みんな無意識のうちにやっています。逆に今までやっていたことが何もやめられなかったとしたら、きっと新しく始めたことの方が続けられなくなってしまうのでしょう。

さらに思ったのは、この無意識でやっていた「何かをやめること」意識的にできたとしたら「新しく始めたこと」続けられる確率が上がるのだと思います。

「新しいことを始めるには、まずやめることから考える」という方法も、結構良いのかもしれないと思っています。


2013年12月18日水曜日

やる気満々の受け身


「受け身」というと、とかく消極的でネガティブなイメージで語られることが多く、特に最近の若手社員を指して言われがちです。

受け身な姿勢に対して「やる気がない!」といって嘆いたり叱責したりしますが、これをやる気がないと言い切ってしまうのは、ちょっと勝手な決め付けであって、必ずしもやる気が無いという訳ではないはずです。

例えば、仕事に対してはいつも前向きな気持ちを持っていて、できることは何でもやろう、何とか役に立ちたいと思っているとして、でも上司はいつも忙しそうだし、まだまだ戦力になれないような自分が話しかけたりして、そのせいで時間を取らせてしまうのは申し訳ないと思っていたとしたら、一体どんな行動を取るでしょうか。

上司が忙しそうにしていても、それに構わず自分から「何かありませんか」とアプローチをする人もいるでしょうし、いつ指示が出されてもいいように、準備万端、やる気満々で仕事をもらえるのを待っているという人もいるのではないでしょうか。

前者に比べて後者は圧倒的に「受け身」ですが、では前者が良くて後者はダメかというと、一概にそうとは言えないと思います。逆に前者は相手の事情を考えずに、自己中心的な気持ちで、自己アピールのために行動しているのかもしれません。

積極的で行動的という面で見れば、前者が優れているでしょうが、相手の事情を考えて空気を読むということでいえば、実は後者の方が優れているといえます。

こんな風に、「やる気満々」という言葉と「受け身」という言葉は、一見相反するようですが、「やる気満々」という目に見えない主観的なものを、「受け身」という見た目の様子だけで決め付けてしまうと、実際とは違っていることがあります。自分の持っている価値観、思い込みによる決め付けも同じことです。

中には「やる気満々の受け身」という人もいるんだということは、是非認めてあげて欲しいと思います。


2013年12月16日月曜日

若手社員が電話応対を苦手な訳


以前読んだある記事に、「最近の若手社員は会社の電話を取りたがらない」という話題がありました。

メールなど他の連絡手段が普及し、会社にかかってくる電話の本数自体が減ってきて、会社のマナー研修でもあえて電話応対を取り上げないところも出てくるなどした結果、会社の電話に出るのは、その大事さを新人時代に厳しくしつけられた30代の中堅社員ばかりになってしまっているのだそうです。

私も新人研修などで電話応対を教えることがありますが、最近の新入社員は、電話応対に対する難易度をすごく高く捉えていて、とにかく苦手意識があるように感じます。

実際の研修の場面でも、一言一句漏らさず一生懸命メモしていて、まるで台本を作っているようだったり、セリフ棒読みで会話としてつじつまが合っていなかったりと、もはや電話応対とは言えないような状態から始まることもあります。

ただ、これもよく考えれば当然のことで、今の新入社員世代は、電話をするにしてもほぼお互いの携帯電話同士でしかかけないので、そもそも電話応対そのものをした経験、他人にかかってきた電話を取り次ぐという経験自体がほぼありません。

かつては家にある電話で、家族の誰かにかかってきた電話を取り次ぐ経験を当たり前のようにしていたので、研修では言葉遣いや聞いておくべき用件、伝言のしかたなどをやれば良かったのですが、今は本当に一からすべてを教える必要があります。セリフの棒読みもやむを得ないでしょうし、そこにちょっとアドリブを入れたりすると、もう何を話していいのかわからなくなってしまいます。

そうは言っても、その新入社員たちも、その後はきちんと電話応対ができています。スタート時点はひどくても、できるまで時間がかかったとしても、教えればできるようになっています。緊張もせずに普通にできるようになっているので、電話を取りたがらないなんてこともありません。

こう考えると、やっぱり相手のレベルに合わせた教え方と、無理矢理でも最初に一歩を踏み出させて、経験の中で慣れさせてしまうことが大事だと思います。
経験させる機会やタイミングを逸してしまうと、「電話に出たがらない」などと同じようなことが、いろいろ出てきてしまうように思います。


2013年12月13日金曜日

「何気ない声掛け」の大切さ


先日の朝日新聞に、梅澤さんという学童保育のスタッフの方が書いた、「何気ない一言」の影響についての記事が出ていました。

その記事によると、小1のなっちゃんに「学童での一年間で何が一番うれしかった?」と聞いたら、
「ドッチビー(円形遊具でするドッチボール)で梅ちゃん(このスタッフさんの愛称)が『頑張ったね。すごくうまくなったよ!』って褒めてくれたこと」 

と、答えがあまりに日常の一コマ過ぎて驚いたそうです。

また、小2のひろみちゃんに「髪の毛切ったんだ。似合うね!」と声をかけたら、
「学校ではだれも気付かなかったの。だから変なのかと思ってた」 

とものすごく感謝され、逆に恐縮してしまったとのこと。大人の言葉がこんなに子供たちに深く影響するのを目の当たりにして、背筋が伸びる思いだったとのことでした。

子供との感受性の違いはあるので、影響は違うと思いますが、これは大人でも同じようなことがあります。

会社でちょっと元気がなさそうなので、それとなく声を掛けてみたら、実はプライベートに問題を抱えていたとか、体調が悪いのに無理をしていたとか、本人が言ったことも忘れているような言葉なのに、それに勇気づけられたと後々になって言われるとか、逆に気軽な一言や余計な一言にショックを受けていたとか、本当にいろいろです。

マネジメントに関わる方は、特に気を使うところでしょうが、中にはマイナスの影響を恐れて、「部下に余計なことは言わない」とおっしゃる方がいます。無難にこなそうとすれば一つの考え方ではありますが、こういうマネージャーの配下では、やはりコミュニケーションが活発でなく、上下の信頼関係も薄いことが多いようです。

心理学では「単純接触の原理」といって、「個体間の親密さは、接触回数、接触頻度が多ければ多いほど増す」というのだそうです。人間関係で言えば「顔を会わせたり、話したりする回数や頻度が増えるほど、相手に対して好感を持つ」という事です。

もちろん誰しも苦手な人はいますから、簡単にいかないこともあるでしょうし、マイナスの声掛けにならないようなデリカシーも必要だと思いますが、新聞記事にあるような子供たちの様子を聞くと、あらためて「何気ない声掛け」の大切さを感じ、大人であっても「何気ない声掛け」を通じて、信頼関係を高めていくことはできるのではないかと思います。


2013年12月11日水曜日

あらためて「限りある時間」の話


以前、別のコラムに書いたことがある内容ですが、また同じように思うことがあったので、あらためて書こうと思います。

今年の春に、公私ともにお世話になっていた方が亡くなった時のお話です。
その方は私が初めに入った会社の経営陣の方で、その後会社が合併したりする中で、経営からは離れていきましたが会社には残り、どちらかといえば飲み仲間のように付き合って下さった方です。

昨年末に「今を逃すと飲めなくなるかも」と思って飲み会をやったのが本当に最後の飲み会になり、「いよいよ会えなくなるかも」と思ってお見舞いに行ったのが本当に最後のお別れになってしまいました。もう少し時間があると思っていましたが、やっぱりそうはいきませんでした。

私の父も3年前にがんで亡くなっていますが、その時もやっぱり自分が想像していたより時間はありませんでした。
実はその教訓もあったので、飲み会もお見舞いも、思い立った時にすぐ行動するようにしました。お亡くなりになったことは寂しいですが、その行動のおかげで、少しは自分の気持ちの整理がつけやすくなりました。

私は気を許していると何でも先延ばししてしまうタイプですが、年齢とともに少しずつ「時間に限りがある」ということを感じるようになりました。
「いつか行こう」「いつか会おう」「いつかやろう」と思っていると、本当に“行けなく”なったり“会えなく”なったり“できなく”なったりすることにときどき遭遇するようになりました。特に「いつか会おう」“会えなく”なってしまった時は本当に後悔します。

こういうことがある度に、「気になったことはすぐにやる」ということが大切であると、あらためて感じます。
 時間には限りがあると自覚すること、できることは早く行動すること、特に会いたい人には会える時にきちんと会っておくことは、年を重ねるほど大事になってくる気がします。
自分が後悔することが少なくなるように、自分のために意識していこうと思います。


2013年12月9日月曜日

教える側の忍耐不足


「坂田ジュニアゴルフ塾」塾長の坂田信弘氏のインタビュー記事の中に、「人を指導するには目標を持つこと、夢を持つこと、希望を持つことが大事であり、それには忍耐や覚悟が必要だが、最近それが希薄になっていると感じる」という話が出ていました。

指導する側にはどこかで献身や忍耐が必要になるが、それがないと、例えば学校であれば、教わる側の子どもたちは「この先生は自分のことを信じてくれていないな」「この先生を信じていいのかな」と疑問を持つようになるのだそうです。特に子どもは賢いので、自分たちを教える人がどこまで自分たちに責任を持っているのかという、大人の心の中をすぐに見抜いてしまうのだそうです。

企業の人材育成の中でも、これと似た傾向を感じます。目の前の業績を優先する会社が多い傾向や、それに関連して教える側の余裕がないせいもありますが、何かと見切りが早いような気がします。少し教えただけなのに、ちょっと反応が悪いと「こいつは使えない」と投げ出したりします。

こういう私自身も、若い頃は見切りが早い傾向があったと、今となっては反省しています。その当時は、ある程度様子を見ていれば、その人の先行きの到達点はわかると思っていて、それによってこいつはできるとかできないとか、早い段階から決めつけていたと思います。やっぱり若い頃の方が気は短いですし、経験を積んで行くとともに、徐々に許容範囲が広がっていったように思います。

人材育成においては、もちろん教わる本人が、自分努力することは大前提ですが、昔の徒弟制度のように「見て覚えろ」などというのは、企業の人材育成としては効率が悪いし、無責任とも言えます。

変化のスピードが速い中で目先に利益ばかりを追いかけると、どうしても答えを早く求めがちになりますが、人材育成には相応の時間が必要です。これをおろそかにすると、結局自社の業績にマイナス効果となってはね返ってきます。

坂田さんの言葉を聞いて思うのは、やはり教わる側と教える側との間に信頼関係が無ければ、人は育たないということです。今までの自分の経験を振り返ってみると、否定せずに根気よく向き合った相手ほど、信頼関係を築くことができていたと思います。その中には、残念ながら期待したレベルには届かなかった人もいますが、思った以上に、しかも後天的に伸びた人もいます。

人を育てるには相手との信頼関係が必要で、その信頼関係を保つためには、教える側の覚悟、責任、そして忍耐が、とても大事になるのだと思います。


2013年12月6日金曜日

「継続は力なり」か、それとも「あきらめが肝心」か


「継続は力なり」「あきらめが肝心」はそれぞれ格言、名言として有名ですが、全く正反対の言葉です。
では、いったいどちらが正しいのでしょうか・・・。

たぶんそんなことを考えるのはナンセンスで、時と場合によって、きっとどちらも正しいだろうと思います。

そうは言うものの、私が最近聞いたお話で印象に残ったことに、「マサイ族の雨乞い」という話があります。
この話はすでにご存知の方もいるでしょうが、マサイ族が生活しているケニア南部からタンザニア北部一帯というのは8割以上が半乾燥地帯ということで、雨乞いの儀式があるのだそうです。ただ、その雨乞いでは、100%必ず雨が降るのだそうです。
この理由は科学でも超能力でもなく、「雨が降るまで雨乞いを止めないから」なんだそうです。

他にも、よく「成功者は成功するまであきらめなかった人」などと言います。こんなことから、やはり私は「まず継続することが大事」というふうに思います。どんなことでもまず継続してみないことには、何がどうなのかはわからないと思います。大して取り組んでもいないうちに、「あきらめが肝心」などと言って止めてしまうのは、この「あきらめが肝心」という言葉の本来の主旨とは、たぶん違うはずです。

ある会社で、新規事業と言って何か事業を始めては、ちょっと結果が出ないとすぐに撤退してしまうところがあります。経営者は「深手を負わないうちに」「早い見極めが大事」と言いますが、成り行きを見守りながら続けていこうという気が無いのなら、そんなこと初めからやらない方が良いはずです。「あきらめが肝心」をちょっと勘違いしている例ではないでしょうか。

私は「継続は力なり」で、できる限りは続けてみて、無理をしなければどうしても続けられなくなった時にこそ、「あきらめが肝心」なのだと思います。

見切りが早いばかりでは、何も身にならないと思います。


2013年12月4日水曜日

「報われない努力」の方が多いはず


先日ある方が、「自分はこんなにいろいろ努力をしているのに、報われることが全然ない」という嘆きと愚痴を延々と話していました。
あまり良い話ではないので、私にとっては少々耳障りだったのですが、話を聞いていると、その人は確かにそれなりに頑張っているし、そんな気持ちになるのも多少は仕方がないかなとも思いました。

ただ、「努力すれば報われるのか?」といえば、必ずしもそんなことはありません。
成功体験がある人ほど、自分の「報われた努力」の話ばかりをし、「報われない努力はない」「だから努力を怠ってはいけない」と言います。
もちろん私だって、「努力は必要」だと思いますし、「いつかは報われるもの」と思っていますが、実際にはその裏に数えきれないほどの「無駄な努力」「報われない努力」があると思います。

「無駄な努力」というのは、まさに無駄なので、実は努力には値していないのかもしれません。それ以外の本当の意味の努力の中でも、圧倒的に多いのは「報われない努力」であって、ごく一部の「報われた努力」を自分のモチベーションとして、多くの人が頑張っているのだと思います。
「報われない努力」ばかりに注目していたらやる気なんてなくなってしまうから、それぞれの人が体験してきた、実際にはごく一部のことかもしれない「報われた努力」に注目して、何とか努力を続けようとしているのだと思います。

「努力が報われない」というのは意外に当たり前のことであって、冒頭のお話の人も、そんなことを嘆いたり愚痴ったりしても、あまり良いことはなさそうに思います。
圧倒的に多いはずの「報われない努力」を嘆くより、「もしかしたら良いことに出会うかもしれないから・・」という気持ちで努力することが必要なのだと思います。

そんな事を考えていたら、「宝くじは買わないと当たらない」「参加しなければ権利もない」というところに近い感じがしてきました。とりあえずは、何か良いことに出会う権利を得るために、できる努力はしておいた方が良さそうです。(ちなみに私は、まだまだ努力が足りませんが・・・)


2013年12月2日月曜日

自信を失うことが多い就活だけど・・・


いよいよ再来年の新卒の就職活動が解禁になりました。少しずつですが、毎年明るい兆しも見えてきているようなので、これは喜ばしいことです。

ただ、実際に活動を始めると、たぶん自信を失うようなことに、思いのほかたくさん出会うのが就職活動だと思います。バブル真っ盛りの就職ならいざ知らず、一社も不採用にならずに就職活動を終えるような人は、よほどでなければいないでしょう。

採用活動をしている企業の側から見ても、合格者よりも不合格者の方が圧倒的に多いという会社がほとんどでしょうから、これは就職活動をする学生さんにとっても同じ結果になります。採用内定という成功体験より、不採用という失敗体験の方が圧倒的に多くなるということです。

また、就職活動の中で精神的につらいだろうと思うのは、この失敗体験が、どんな原因で起こった失敗なのかがものすごくわかりづらいということです。

例えば受験なら、試験結果を自己採点して見たり、問題ができたかできなかったかという感覚があると思います。またそれが極端に大きく外れていることは少ないと思います。
しかし採用試験の場合は、自分としてはいい感触の面接だったにもかかわらず結果が不採用というように、自分の感覚と結果が正反対に食い違うことがたくさん出てきます。しかもその理由がイマイチ良くわかりません。

採用内定した学生さんに毎年話を聞いていると、失敗は失敗として受けとめ、過度に落ち込み過ぎず、かといって軽視もせず、自分なりに理由を分析したり他人に相談したりしながら、自分のやりたいことや適性を自分なりに考え、面接などの場数を踏んでいく中で内定にたどり着いたという人が多いようです。

中にはあまり苦労せずに内定したという人もいますが、そういう人の方が、入社してから「思っていたイメージと違った」「こんなはずじゃなかった」という確率が、少なくとも私が見ている限りでは高いような感じがします。これは就活に苦労する中で、自分なりにいろいろ考えるというプロセスを、踏んでいるかいないかという違いだと思います。

きっと多くの就活生が、当初自分が思っているより苦労をするし、自信を失うことも多いと思います。でもその経験は、後々になって必ず何かの役に立つと思います。

あまりうまくいかない時期があっても根気よく取り組んで、多くの人が良い結果を得られるよう祈っています。