2013年10月30日水曜日

「会議体」と「ただの会議」の違い


組織が拡大するとともに、会議の数が増えていくのはある程度は仕方がないことです。ただ、顔ぶれがほとんど変わらない会議がいくつもあったり、出席しても発言する機会がほとんどないような会議は、あまり有意義とは言えません。

組織運営上の課題で、「非効率な会議」がテーマに挙がることは良くありますが、真面目に会議の中身を吟味しようとすると、「あれは必要だ」「これは減らせない」などの意見が出てほとんど削減できず、それならばと時間制限や人数制限、回数制限などを行ったりしますが、だいたいがしばらくするとなし崩しになってしまい、あまりうまく行くことがありません

企業文化によるところもありますが、会議の多さが当たり前になり、それに慣れてしまっているような会社を目にすることもたくさんあります。

ある会社で、「うちの会社は会議体が多すぎて困る」という発言を耳にしました。たぶん「ムダな会議が多い」という意味だと思いますが、この「会議体」「ただの会議」とは意味が異なります。

ご存知の方はご存知でしょうが、「会議体」は、複数の人がある目的のために集められ、その会議によって意思決定を行うという意味です。取締役会、株主総会など、決定事項があるものが「会議体」に該当します。

ですから、複数の人が集まっても、明確な決定事項がない会議は「会議体」ではないし、打ち合わせなども「会議体」には当たりません。また、ある責任者がトップダウンで意思決定するような会議も「会議体」ではありません。

企業内で「多すぎて困る会議」の大半は、時間ばかりかかって何も決まらない会議、初めから決定事項がない会議、目的が良くわからない会議ではないかと思います。「会議体」ではない「ただの会議」です。

こうやってみていくと、「会議体」は組織の拡大とともにある程度増えていくものだが、「ただの会議」はそうとも言えないという感じがします。

「会議体」「ただの会議」の違いをしっかり認識してみると、少しはムダな会議を整理することにつながるのではないかと思います。


2013年10月28日月曜日

使い方が見直される「年功序列」


最近あらためて「年功序列」を見直し、うまく活用しようという動きが、一部の企業の中に出てきています。

例えば、入社後10年間は、会社として必要なスキルと経験を身につけてもらう期間として位置づけ、昇格スピードに差はつけずに社内で経験を積んで行ってもらい、社内での競争はその後からというようなことをしています。会社として10年の育成期間を設けるということですが、その間でも短期的な成果は、賞与で差をつけて反映するのだそうです。

かつては悪しき制度の象徴のように言われた「年功序列」ですが、世の中の仕事で、年月を経ていく中で身につけていくスキルや経験、すなわち年功的な要素が一切関係ない仕事というのは、たぶんほとんどないと思います。新しい発想、新しい技術、新しい方法だけがすべてということはないでしょう。

年令は関係ないと言いながら、年令相応の経験値というのは確実にありますし、周りからはそういう要求もされます。スキルや経験と年令は、正比例の関係ではありませんが相関性はあります。

かつての「年功序列」は、それが第一優先の基準だったため、生み出した成果や保有能力にかかわらず、ただ年令が上だというだけで、給料も役割も役職もみんな上というものでした。

その反動で成果主義への移行がありましたが、今度はそれを重視しすぎたため、中長期の経験の積み重ねで得られる経験知や暗黙知(言葉では表しづらい知識)が軽く扱われるようになりました。中高年層を中心にしたリストラなどで、現場が回らなくなってしまう企業がたくさん出てきました。

体力、記憶力、新しいことへの適応力や吸収力といった、年令とともに衰えていく能力がある一方、人脈、応用できる事例、経験を積むことによる引き出しの数や中身、その他いわゆる人生経験は、年令とともに増えていきます。これらをすべて足し算したものが、仕事をしていく上での「総合力」ということです。
この「総合力」は、衰えるものを積み上げるものが上回れば、年令を問わずに本人の意識次第で増やしていく事ができます。

経験値や暗黙知も含む仕事の「総合力」に注目すると、人材育成というのは中長期で考えて行くことが必要になります。「経験する」「場数を踏む」ということも、それを繰り返していくことも育成には必要であり、そのためにはある程度の時間が必要です。

そんな事を考えると、「年功序列」も、適度な意味であれば必要な考え方ではないかと思います。


2013年10月25日金曜日

悪気が無い営業担当たちのしつこい電話営業


このところ、ある会社から頻繁に営業電話が入ります。真面目なサービスを行っていてそれなりの知名度もあるきちんとした会社です。

こちらとしては今のところ利用を考えていないので、そう言ってお断りをしていますが、にもかかわらず何度も何度も電話があります。電話をしてくる人はその度に違う人で、何度も連絡をもらって断っている旨を伝えると、恐縮して謝罪され、すぐに電話を切ります。皆さん言葉づかいも丁寧で礼儀もしっかりしていますが、でもまたすぐに違う人から電話がかかってきます。

これは想像でしかありませんが、営業先候補のリストか何かだけを共有していて、それを使って個々の営業担当が個別に動いているようです。私のように連絡が重複している相手がいることは、個々の営業担当はたぶんわかっていて、それでしつこい話はしないのだと思います。

この状況は、会社の評判自体を落としますし、営業的にもマイナスにしか働かないはずです。営業状況の共有ができていないためにこういうことが起こっているのは明らかです。
ただ、手当たり次第に電話営業するような会社は、おおむね電話口での対応もよろしくないことが多いですが、この会社にそんな感じはありません。電話対応の様子から感じるのは、個々の営業担当の顧客対応スキルは十分にあるのだろうということです。

こんなことから、これもさらに想像ですが、何らかの理由で今まであまりやってこなかった電話営業のような手法を取ることとなったが、環境整備ができておらず、営業現場はかえって右往左往している、そんな感じがします。

非常に単純な社内情報共有の上での不手際ですから、社内のしかるべき立場の誰かが、ちょっとだけ主導すれば解決できてしまいそうなことですが、そうはいかない何かがあるのでしょう。
“しかるべき誰か”が現状を知らない、または知っているけど問題とは思っていない、などということが一般的には多いですし、部下とのつながりが浅い新任の営業責任者が、営業現場にテコ入れを図っているなんて言う場合にこんなことが起こりやすいですが、実際にはどうなのかわかりません。

それなりの企業ですし、ちょっとした組織内のコミュニケーションの問題なので、会社の評判を落とさないうちに、早く気づいて是正してもらえれば良いと思っています。


2013年10月23日水曜日

飛び越してもよい「情報収集」と飛び越してはならない「指示命令」


組織上のどんな立場でも、現場で起こっていることの「情報収集」は大事です。

社長や役員の現場視察や現場ヒアリングはいろいろな企業で行われていますし、直属の上司部下の関係だけでなく、それを飛び越えた意見交換や情報交換、懇親といったことも、仕組みの有無にかかわらず実施されていると思います。こんな「情報収集」に関しては、それが組織の枠や直属の関係を越えていたとしても、悪いことではありません。

ただ、特に中小企業やオーナー企業で多いのは、この「情報収集」の結果をもとに、組織の枠や上司部下の関係を飛び越した「指示命令」が行われてしまう場合があることです。社長や役員が、直属の部課長を飛び越して現場の一般社員に直接指示を出し、部課長はそれを知らない、などということです。役員が部長を飛び越す、部長が課長を飛び越すなど、パターンはいろいろあります。

こうやって書くと「それは組織運営上は良くないことだ」と理解してもらえるのですが、実際に組織を飛び越した「指示命令」は、結構な頻度で行われているにもかかわらず、当事者がそれを自覚していることは意外に少ないです。「自分は現場を知っている」という感覚で、組織階層はあまり考えず「自分で指示してしまう」のです。

でもこれは、飛び越された指示命令の権限者にとっては、大変困ることです。自分の指示が覆されたり、つじつまが合わなくなっていたり、それが自分のあずかり知らないところで行われていたりします。
飛び越された管理者はどう行動するかを考えれば、まずは飛び越した指示を出した上席者に反論するか、黙って従うかのいずれかしかありません。
その後は、飛び越された本人が、「責任感をなくす」「自分で判断しようとしなくなる」「上司に不信感を持つ」「やる気を無くす」など、いずれにしてもプラスに働くことは一つもありません。

組織上の権限を持ったオーナー経営者や役員だと、ついつい口を出したくなるのでしょうが、組織上の秩序を守るには「指示命令」を飛び越して行うことは、よほどの緊急時でもない限り厳禁です。

「情報収集」は幅広く臨機応変に行い、「指示命令」は組織上の職務権限に従うということは、企業規模に関わらず、絶対に守らなければならない原則だと思います。


2013年10月21日月曜日

“立派過ぎる社長さん”の弊害?


“率先垂範”が大切なことは、いろいろな場面でいわれますが、これは少しそれに反するようなお話です。

その会社は非常に忙しく、仕事の拘束時間も長くなりがちな、俗にいう“キツイ”業界ですが、社長さんがとても立派な方なのだそうです。
誰よりも率先して働き、指示も的確で仕事ができる方です。口先だけのリーダーシップでなく行動も伴っています。誰よりも早く出社し、掃除などの雑用であっても他人だけに押し付けずに一緒にやります。社員たちによく声をかけ、よく人を褒めます。社外では慈善活動にもかかわるなど人格も素晴らしく、みんなに尊敬されるような方だそうです。

「こんな人のもとで働きたい!」という入社希望も多いなど、素晴らしい会社に間違いないのですが、実はこの会社には、 “メンタルダウン”を起こしてしまう社員が非常に多いという問題があります。
その理由として、業界的にも激務であるということとともにもう一つ、この立派過ぎる社長さんにも原因があるようです。

どんなことかというと、例えば、仕事がつらそうだったり行き詰まっている社員がいると、この社長さんは、「君ならできるよ。僕だってやって来れたんだから!」「大丈夫!チャレンジしてみようよ!」などと励ますのだそうです。確かに社長さん自身も努力しているし、率先して行動もしているし、人格も立派です。よくある話の「自分のことを棚に上げて」などと批判もできません。また、そんな社長さんから励まされれば、社員の立場で「いいえ、無理です」「つらいです」「できません」などとは、なかなか言えないでしょう。

リーダーが優れていて非の打ちどころがないがゆえに、周りで働いている社員たちもそのスーパーマンに合わせざるを得ない、要するに「弱音が吐きたくても吐けない」という環境になってしまっていたのだそうです。
自分はつらくても、もっと大変そうで、なおかつそれを実践しているな社長がいることで、とても弱音なんか吐けないから我慢するしかない・・・、そんなことを続けているうちに体と心が悲鳴を上げ、結局働く事ができなくなってしまう・・・、こんなことがあるようです。

この「弱音が吐けない環境」は、言いかえると「本音が言えない環境」となります。また、「自分の弱みが見せられない環境」でもあるでしょう。これはコミュニケーションが悪い組織、助け合いがない組織、ノルマが厳しい組織に起こっていることと、あまり変わらないことになってしまいます。

この社長さんにはまったく悪気はないのだと思いますが、しいていえば、自分は他の普通の人とはちょっと違うということ、多くの人はそんなに何でもできるものではないということの理解が足りないように思います。

行動的でリーダーシップがあって、率先垂範を実践している人格者の社長さん! ちょっとだけ周囲の人たちを見渡して、甘えることも許してあげてもらえれば・・・などと思います。


2013年10月18日金曜日

内定者に聞いた“就活の進め方の個性”


ある企業で、来年入社の新卒内定者の方々に、就活中の様子を聴く機会がありました。

企業研究のしかたについて尋ねてみたところ、ある女性は「ちょっとでも興味を感じたところにはできる限り説明会に行って、その時に感じるもので選考に進むかどうかを決めていた」と言っていました。
特に活動を始めたての頃は、自分にとっては“ハズレ”と言っていいような会社にも、ずいぶん当たったことがあったようです。そんな経験をしながら、徐々に目も肥えていき、効率的に活動できるようになっていったそうです。

これに対してある男性は、「特に自分が重視している事業内容の部分を、できるだけ細かく自分で調べて、その上で説明会に参加するかどうかを決めていた」とのことでした。まったく的外れの企業に行くようなことはなかったが、説明会に参加した社数はやっぱりあまり多いとはいえないと自己評価していました。自分の適性を良く見て、「自分が役に立てる仕事は何か?」という考えが強かったのだそうです。

就活の一般論として、「会社はできるだけいっぱい回ろう」なんて言いますが、実際にやろうとするとそれほど簡単なことではありません。最近は100社以上回ったなんていう人もめずらしくありませんが、やっぱり時間的な制約もあるし、とりあえず数を撃てば当たるというものではありません。うまく活動するには効率もメリハリも必要です。

このお二人の場合、とった方法はそれぞれ正反対ですが、共通しているのは「自分に合った方法を自分なりに考え、自分なりに検証しながら進めて行った」ということです。自分なりの特性に合わせた“就活の進め方の個性”と言えるでしょう。

もう一つ印象的だったのは、最近の就職指導の中でよくやっている“模擬面接”のことを聞いたところ、このお二人はやろうとは思わなかったそうです。

「あまり意味がないだろうと思った」という点は共通していて、その代わりに何をやったかというと、女性の方は友人との情報交換や意見聴取で、「面接で○○って聞かれたら、なんて答えたらいいと思う?」なんていうやり取りをしていたそうで、男性の方は、やはり「自分なりの反省とあらためての自己分析だった」とのことでした。

ここにも“自分の感性と対外情報重視”“自分で考えることと準備の重視”という、企業研究の仕方と似たような違いが出ていました。

就活に関する本があふれ、塾やセミナーのようなものまである昨今ですが、就活を成功させるための基本は、やはりマニュアルや周囲の声に流され過ぎず、かといって無視はせず、「自分に合った方法を自分で考える」ということに尽きるようです。


2013年10月16日水曜日

軽く扱われている気がする「人材開発」


「人材開発」という言葉を聞いたとき、皆さんはどのような捉え方をされるでしょうか。「人事の中の一機能」「社内研修担当」という感じが多いのではないでしょうか。中には「役に立つのかわからない研修を自己満足で企画しているような面倒な部門」などという否定的な捉え方もあるようです。

ただ、「人材開発」というのは、社内研修などと言う狭い話ではなく、“企業戦略に合致した人材像を定め、それに則った人材育成戦略を定めて実行する”ということが本来の定義です。

そう考えると、どんな人材を採るかという採用、どんな人材を評価し、どんな処遇をするのかという人事制度、どんな役割でどんな仕事をどこでやらせるのかという配置や異動、個々の現状のスキル把握と育成方法の検討など、組織の「人」についての全てのことが関わってきます。

しかし現実には、「人材開発」というセクションがあったり担当者がいたとしても、ここまでの役割を与えられていることは多くありません。

実際に「人材開発」を担当している人の意識も同様です。社内を自分たち目線で見渡し、関連部署の意見を聴き、「マネジメント能力が足りないから」といってリーダーシップ研修、「コミュニケーションが足りないから」といってコーチング研修など、研修企画担当という範囲で、あまり体系的とは言えない取り組みに専念していることがほとんどです。

実は私が企業人事の時代も、「人材開発」に対する意識はまさにこのままでした。だから今の立場となって、なおさら強く感じるのですが、“組織人材の高度化”を考えた時、本来の定義での「人材開発」の取り組みは非常に大切です。

「人材開発」というテーマの捉え方をもっと広げ、担当者にも相応の権限を与えて体系的に取り組むことが必要ということです。もちろんそのためには、「人材開発」の本質を理解した専門性を持った人材も必要でしょう。

ともすれば、専門性はあまり必要ないと見られ、社内ローテーションの中で誰かが腰掛けで担当していくような扱いをされてしまう「人材開発」ですが、本来は「企業の人事戦略の中心を担う」という、とても重要な役割です。そのことをもっと強く認識する必要があるのではないかと思います。


2013年10月15日火曜日

利益代表になってしまう困った管理職


現場主義と言えば聞こえが良いかもしれませんが、現場の利益代表になってしまう管理職の方が、ときどきいらっしゃいます。

こういう管理職の周辺でよくある構図は、部下から見れば“物わかりが良い上司”、会社から見ると“全体最適を考えない上司”となるのですが、必ずしもそうではないこともあります。

私も人事の立場ではいろいろなパターンを体験しましたが、意外に多いのは、部下たちが実はこういう上司をあまりに評価していなかったりするパターンです。

ある会社で、何かにつけて会社の規定をねじ曲げなければならないような、ちょっと理不尽なくらいの要求を頻繁に出してくる管理職の方がいらっしゃいました。
いつも「現場が大事」と言い、「現場が動きやすくするためにはこうすべきだ」「現場ではみんなそれを望んでいる」と言います。
その内容は、こちらから見るとちょっとわがままに近いような、組織のルールとしては特別扱いになってしまう自己中心的な要求ばかりです。

そんな中で、その現場にいる部下の人たちに「本当にそうなのか?」と尋ねたことがあります。その時の答えは「あの人は焚き付けると盛り上がって動くから、どっちでもいいことも言うだけ言っている」と話していました。「だって、そんなこと簡単にはできないですよね?」とも言います。

「そんなことなら、焚き付けないでよ・・・」と諭した覚えがありますが、この様子を部下の視点でみると、“たぶん通る訳がない理不尽なこと”を“試しに上司に投げかけてみた”ところ、“思いのほか真に受けて動き始めてしまった”ということのようでした。まぁダメもとで上司に言わせるだけ言わせて、多少でも認められることがあればラッキーという感じだったようです。

そんな上司と部下の関係で、本当の意味での信頼関係があったかというと、少なくとも部下の側からは「そうでもないですね・・・」という答えでした。自分たちの上司のことを、どうも思い込みで勝手に走ってしまうとか、話を聞いているようで動きが違うとか、ゴリ押しが過ぎるとか、そんなことがいくつもあったようです。

この管理職の場合は、個人のキャラクターの問題がありますが、他の場合でも、現場の意向を意識しすぎて、組織の全体最適を意識できなくなっていることで、結果的に部下の信頼を失っていることがあります。部下たちの方が、社内での横つながりの関係を持っていて、よほど全体最適の意識が高かったりします。

組織の全体最適を考えるということで言えば、本来は上司の方がより大所高所で見なければならないところですが、現実にはそうでもない場合があります。やはりこれはよろしくないことで、せめて上司と部下が同じ目線で組織全体を考えてくれなければ、会社としても困ることが多々出てきます。

上司ご本人は「現場を理解した信頼がある上司」と自己評価していても、部下からはそう思われていないことも少なくありません。現場の意見を吸い上げているつもりでも、それだけでは部下の信頼は得られません。やはり管理職として、組織の全体最適を考えた上での判断が伴っていなければ、部下との本当の意味での信頼関係は築けません。

そんな状況に陥らないように、管理職の方はご自身の現場との関係性を、今一度見直して頂ければと思います。


2013年10月12日土曜日

両立が必要な「言われてやる風土」と「気づいてやる風土」


いろいろなお店で食事をしたりサービスを受けたりする中で、特に最近は嫌な思いをすることがなくなりました。どこに行っても接客やサービスのレベルが高くなっていると思います。

先日もあるお店で、ランチタイムを少し過ぎて空いてきたころでしたが、会計後に出入り口まで送っていただき、「午後もお仕事頑張って下さい!」と声をかけられました。全員がそういう対応をしていた訳ではないので、たぶんマニュアルではなく本人の気づきで声掛けをしてくれたのだと思います。特別に気遣ってもらった気がして、よけいにうれしかったです。

“指示待ち”というのは概して非難されがちですし、言われてやるよりは進んでやる、本人が気づいてやる方が良いと捉えられることが多いと思いますが、これは「良い組織」とは多少矛盾する部分もあります。

「良い組織」の定義が“統制が取れた組織”“指示命令がはっきりしている組織”だとすると、リーダーシップを発揮するリーダーがいて、そのリーダーの指示を速やかに実行させる組織が良い組織ということになります。

実際に私が見てきた中でも、社長のリーダーシップが強いとか、仕事ができるリーダーがいるとか、そんな会社は十分に「良い組織」ではありますが、その一方でそういう会社の方が、実は「言われてやる風土」であったりします。リーダーが何でも指示してやらせてしまうのです。

これだと「良い組織」イコール「言われてやる風土」ということになってしまいますが、「言われてやる風土」では、“自分で気づいたり考えたりする経験が少ないのでリーダーに成長できない”、“リーダー資質を持つ人材がいちいち指示されることに嫌気がさして辞めてしまう”などの問題が起こってきます。要は次のリーダーが育ってきづらいのです。

「強いリーダーシップを持つリーダー」「仕事ができるリーダー」は往々にして人の育成を妨げる場合があります。「名選手”必ずしも”名監督にあらず」という言葉にも通じるところがあるかもしれません。

ただ、やはりリーダーはその場の仕事を進めるとともに、人の育成も考える必要があります。これは指示して実行させるだけでなく、「本人に考えさせて、指示内容と同じ結論を出せるようにする」ということが必要になります。「気づいてやる風土」に導くということです。

「言われてやる風土」「気づいてやる風土」。どちらが良いということでなく、両立させることが必要なのだろうと思います。


2013年10月11日金曜日

大きすぎない方が良い「社内制度への期待」 


それぞれの会社には、いろいろな社内制度があると思います。

私が関わる事が多いのは人事制度ですが、これを整備しようと考えるきっかけには、大きく二通りあるようです。
一つは会社の規模拡大や組織化の必要性に伴って、新たなステップを考えての場合で、もう一つは、すでに運用している制度があるものの、方向性が合わない、思うように機能しないなど、実態との不整合が生じてきた場合のいずれかです。

そんな中でときどき見受けられるのは、制度を作ったり変えたりするということで、“何かすべての問題が解決する”“画期的に変わる”など、効果を過度に期待していると感じる場合があることです。特に中小企業や比較的社歴の浅い企業にそんな傾向があります。

これは、そのような企業では、いろいろなことがまだまだ属人的に動いていて、仕組みや制度を作って組織を動かすという経験が必ずしも多くないために、出てきた課題の原因を「制度がないから」「制度が悪いから」と考えがちなところがあるように思います。

また、現場の事情をあまり把握できていない経営者や管理者も、これと同じような考え方をする傾向があります。たぶん現場で行われている仕事のプロセスや人の様子などがよくわからないため、形になっていて自分の目にもとまりやすい「制度」や「仕組み」の方に目が向きがちなのだろうと思います。

いずれの場合も、「制度を直せば解決する」と、制度見直しを過大評価して捉えているように見えてしまうことがあります。

しかし、人事制度の場合でいえば、対象としているのは「人」なので、最後の部分は個人の感情までつながってきます。制度で決まっているからといっても、自分の役割や評価や給料について、それだけで納得できるわけがありません。

誰が評価したか、どんな説明をされたか、話す姿勢や態度、評価する側とされる側の人間関係、その他いろいろな要素によって、制度がもたらす効果は変わってきます。
毎回機械的に同じように対応しても、反応は違ってきます。やはり「人」が対象ということで、運用面に左右される要素が大きいということがあります。

人事制度だけでなく、社内制度というのはその仕組みができたからといって、それで一件落着となることはほぼありません。制度と運用が相まっての社内制度です

あまり過大な期待をせず、できたところで初めてスタートになるという認識を持っておくことが良いのではないかと思います。


2013年10月9日水曜日

「差がつく評価制度」が良いのか?


「うちの会社は同年齢、同じ社歴でも、年収で最大○百万円の差がつく」というような話をされることがあります。能力主義実績主義であるということを強調したいのだと思います。

私が人事制度検討に関わる中でも、主に経営層から「もっと差がつくような制度にしたい」という要望が出て来ることがあります。「力のある者に厚く処遇したい」「結果を出している者に報いる制度にしたい」と言われることが多いです。

この気持ちは理解できますし、俗に言われる「悪平等」があるのだとすれば、それは良い事ではありません。ただ、単に差がつくようになれば、それが解消されるわけではありません。

人事制度における評価というのは、どんな精緻な仕組みであっても、その差が本当に適切なのかは、結局は誰も説明できません。あくまで自社の価値観をもとに作った、今の仕組みで評価するとそういう結果になったというだけです。

100%の納得にはなかなかならないし、差がつく度合が大きければ大きいほど、納得できる説明が得られないと、社員の意欲は下がっていきます。これは評価が低い者だけでなく、高評価を受けた者さえも、その評価が継続しないと不満を溜めていくというようなことがあります。

人事制度の本来の目的は「組織全体の業績を上げるために、人的資源を活性化すること」です。会社にはいろいろな人がいます。競争心がある人もない人も、熱い人も冷静な人も、出たがりも控えめも、派手も地味も千差万別です。そしてそのすべての人が会社としての戦力です。

ともすれば「差がつく」という形で競争心をあおることが、万人のやる気につながるように思いがちですが、競争が得意な人も苦手な人も、他人との差に興味が強い人も弱い人もいます。
もしも競争の苦手な人が多数の職場ならば、競い合うより落ち着いて協力し合う環境を作った方が組織として活性化するかもしれません。あえて「差をつけない」という仕組みの方が望ましいという場合もあり得ます。

自社の特性をしっかり見つめた上で、それに基づいた仕組みで評価を行い、その結果として差がついたのならば良いと思いますが、初めから「差をつけること」が目的ではありません。

企業風土、仕事の進め方のスタイル、社員の性格傾向などの見極めも行った上で、本来の目的を念頭に置いた上で評価のしかたを考えると良いと思います。


2013年10月8日火曜日

先人も意識していた知識や技術の伝承


先ごろ伊勢神宮で行われた式年遷宮(しきねんせんぐう)について聞いたお話で、私がとても印象に残ったことです。

式年遷宮というのは、1300年間に渡って続けられている20年に一度の大祭で、社殿をすべて造り替え、殿内の神宝などを新調して、御神体を新宮へ移す一連の儀式をいい、先日行われたのは“遷御の儀”といって、そのクライマックスにあたるものだそうです。

この“社殿を定期的に造り替える理由”には、神宮の永遠性を示すなどの宗教的な意味とともに、実は建築様式の保存や建替え技術の伝承を行うという意味もあるということだそうで、さらに儀式がなぜ20年間隔かというと、やはり宗教的な意味のほかに、当時の人の寿命や実働年数から考えると、20年に一度の遷宮であれば、少なくとも二度は遷宮に携わることができるので、二度経験すれば技術の伝承を行うことができるということがあるのだそうです。

ここに私が印象深く、なおかつ感心した理由があるのですが、こんないにしえの頃からずっと先の時代を見据えて、いかに技術を伝承していくかを工夫し、それを1300年という長きに渡って、今の時代まで実践し続けているということです。

これは以前お話をうかがった、創業100年を越える日本の老舗、長寿企業の話とも共通していて、
・創業者の理念を、誰でもわかる簡単な言葉や言い方で脈々と伝えている。
・100年先を見て、次の世代にどうやって引き継ぐかを常に考えている経営している。

ということを、皆さん意識的に続けていらっしゃり、それが理念や技術の伝承につながっています。

もう一つ、1300年続けてこられた上で大事な点は、「定期的な大祭という実践の場の中に、技術伝承が考慮されて含まれていた」ということではないかと思います。これは、「どんなに練習を積んでいても、試合に出て実戦で使わなければ身に付かない」ということと同じ気がします。

最近日本企業では、団塊世代の退職に伴う技術伝承の問題が言われ、それに起因するような事象も出てきていますが、考えてみればほんのここ2、30年程度のことです。これは先人たちの取り組みからすれば、伝えようという意識も仕組みも実践も、すべて足りなかったということだと思います。
さらに実践の場ということで考えると、最近の企業内の技術伝承は、必ずしも本番の試合ではなく、どうも練習試合止まりのレベルが多くなっているような気がします。

理念であっても技術であっても、それを伝承するには実践経験が必要であり、その実践の場というのは、かなり意図的に作らなければならないのではないかと思います。また、これを実際に工夫して取り組んでいる企業もたくさんあります。

やはり、技術伝承のためには「いかに実践の場を作るか」、そして「それをいかに継続するか」が重要なのだと思います。


2013年10月5日土曜日

理屈が合っているだけでは相手は納得しない


リーダーやマネージャーという立場になると、必ずしも部下の意にそぐわないことでも、納得させて実行しなければならない場面に必ず遭遇すると思います。

中には「部下の納得なんて不要だ!」という人もいますが、そういう人は今回の話からはちょっと除外して、その他多くのリーダー、マネージャーという人たちは、そのことについて一生懸命論理的に説明し、理屈が客観的、論理的に合っていることを基本にして、部下からの納得を得ようとします。

しかしそれではなかなか納得につながらず、見切り発車で物事を進めてしまうこともあるでしょう。何とか少しでも納得してもらおうというリーダー、マネージャーの思いとしては不本意でも、結果的には「部下の納得なんて不要だ!」という人と同じことになってしまいます。

ここであらためて思い起こして頂きたいのは、私があえて言うまでもなく、「人は理屈が合っていても、それだけで納得するものではない」ということです。相手からの納得を得るためには、“言う人が誰なのか”“その人はどんな人か”“部下からどう見られているのか”、など、ロジックとは関係がない要素が含まれます。
 
例に挙げてみれば、
「遅刻を説教する人が遅刻の常習犯」
「ゴルフの教え魔なのに自分はヘタ」
「あれこれ仕切るが口先だけで自分はやらない」
「頼みごとなのに態度が横柄」 など、その他挙げればきりがないでしょう。

しかしこれらも、
「時間厳守の人に注意された遅刻」
「プロのゴルフレッスン」
「率先して行動しながらの指示」
「謙虚な態度の頼みごと」 となれば、納得感は全く違います。

これは、相手の過去の行動や接し方による“信頼感”が、納得のためには重要ということです。これは、ただ“率先垂範”“背中で語る”ということではなく、“自分の弱みも開示する”“相手の心情に寄り添う”“相手の考えの本質を理解する”、などということもあります。

きちんと“信頼感”が作られていると、仮に理屈は合っていなかったとしても、
「この人が言うなら大丈夫」
「この人の言葉なら信じよう」
「この人に頼まれたら断れない」など、理屈を超えて納得が得られることもあります。

相手の納得を得るためには、論理的なだけでは限界があります。逆に論理性は皆無でも、“信頼感”で納得を得られることもあります。

結局は日々の振る舞いの積み重ねですが、理屈よりも大事な物があることだけは、忘れないようにしてなければいけないと思います。


2013年10月4日金曜日

「周りが見えなくなる人」って本当に多いのか?


自分の業務の一環として、今でも採用面接をお手伝いする機会があります。

面接の定番の質問で、「ご自分の長所短所は?」という問いがありますが、そうやって聞いたとき、短所として「一つのことに集中しすぎて周りが見えなくなる」と答える人が、なんだかとても多いように感じます。今まで結構長い間採用面接をしてきていますが、今も昔も変わらずにそんな印象です。

これはたぶん、職種や仕事柄に一因があることは確かだと思っています。私の今までの経験では、技術系の職種、理系的な素養が要求される仕事、論理思考が必要な仕事、理屈っぽい方が良い仕事などが多く、どうもそういう仕事を志望する人のタイプとして、「周りが見えなくなる」という特徴があるように思います。

「周りが見えなくなる」というのは確かに短所ですが、裏返しで「集中力がある」ともいえます。また実際に「周りが見えなくなる」という時間帯があったとしても、あるきっかけで我に返ることができれば、それは全く問題がありません。むしろその裏にある「集中力」が活かせるようになります。

同じように採用面接に関わっている人で、私と同じ感覚の人は、もしかしたらそれほど多くはないかもしれませんが、私は今まで本当に「ご自分の短所は?」と聞くと、とても多くの人から「周りが見えなくなる」という答えをもらっていました。でも実際に、そういう人が自分の周りに多いと感じたこともありません。

 たぶん実際には、そんなに「周りが見えなくなる人」が多くはないのだと思いますが、それはやっぱり、多くの人が自分の短所をちょっと意識して直し、短所の裏側にある長所をしっかり発揮しているということではないかと思います。

皆さん、意外に自分の短所は克服しているのかもしれません。


2013年10月2日水曜日

なぜ若手社員は「仕事とプライベートのケジメ」にこだわるか?


ある企業の新人研修で、「理想の上司をイメージする」というワークをやった時のことです。その中で「仕事とプライベートのケジメがついている人」という意見が、思いのほかたくさん出てきました。

具体的に聴いてみると「仕事中に個人的な話はしない」なんてことが出てきます。「軽い雑談はダメなの?」と聴くと、「うーん、中身によります」などといいます。自分も興味がもてそうな趣味な話などは良くて、奥さんとケンカしたとか、それで機嫌が悪いなんていうのはダメだそうです。

ちょっと面白いので、いろいろ質問してみました。

「仕事終わりの同期飲み会は、仕事?プライベート?」・・・約2割が「仕事」
「ではその飲み会メンバーに上司が入ったら?」・・・約7割が「仕事」
「行き帰りの通勤時間は、仕事?プライベート?」・・・約5割が「仕事」
「休日に会社の仲間と出かけるのは?」・・・「うーん、それはプライベートかな・・・。(とはいうものの、そういう情景があまり想像できていない様子?)」

もちろんかなりの個人差はありましたが、少なくとも私が思っているよりは「仕事」と思う比率が高いようでした。「そんなのは仕事じゃない!」「社会人の自覚がない!なんて怒る人もいそうですが、これは事実ですし、時間をかけて積み上げてきた価値観なので、すぐに変わるものではないでしょう。

なぜ、こう思うのかを考えてみると、仕事観に共通の前提があるように思います。

「仕事はそんなに楽しいことではない」
「やらなければならない義務である」
「自分の意志に関わらず。やらされること、強制されることが多い」 など。

要は自分から進んで、喜んで取り組む対象ではないという感覚です。「言われるまで待っている」「言われなければ動かない」などという傾向の一因かもしれません。

これには、社会人の先輩たちにも原因があります。自分の親でも親戚でも、アルバイト先の社員や上司でも、いつも何かに追われて大変そうな姿ばかり見ていたとしたら、みんな疲れていて楽しそうに見えなかったとしたら、そういう環境はできるだけ避けたい、そんな時間の比率はできるだけ減らしたいと思うのが当然でしょう。
“仕事とプライベートのケジメにこだわる”というのは、「嫌なことはできるだけやりたくない」ということに近いように思います。

これを変えていくには「仕事は楽しくないもの」という前提が変わらなければなりません。仕事を具体的にイメージできる経験、仕事の楽しさを知る経験が増えれば、少しずつ変わっていくのではないかと思います。そういう意味では「職業観の教育」なども必要なのでしょう。

ただ、私はそんな難しいことを言わなくても、「楽しそうに働いている大人」が身近にたくさんいれば、それが一番のお手本になり、周りも自然にそうなっていくと思います。
「楽しそうに働いている大人」が増えること、そして自分たちも「楽しそうに働いている大人」になることが一番の教育ではないかと思います。

2013年10月1日火曜日

売れればそれで良いのか?


私の家で、もう20年近く借りていた月極めの駐車場が、急きょ今月で閉鎖になると言われてしまい、あたふたと周りをあたっていました。少々遠くて条件はいまいちでしたが、妥協してそこに契約したのですが、その直後に、もともと借りていた駐車場を仲介している不動産屋さんから電話がかかってきました。

何でも地主さんから急に連絡があり、駐車場を閉鎖しないで継続することになったので、また続けて借りてくれないかとのこと。よく聞けば、時間貸しの駐車場に作り変えようと考えたらしいのですが、初期費用があまりに高くて断念したのだそうです。

「何だそれ・・・?!」とは思ったものの、新しく借りようとしたところも快く契約破棄の対応してくれて、結局元の場所をそのまま借りることになったのですが、私が引っかかったのは、「時間貸しに変えようとした」というところです。

その駐車場というのは、もう40年以上前に分譲された住宅街の真っただ中にあり、車通りは少なくて周囲の道路も広く、駐車禁止にもなっていないような場所です。要は時間貸しで駐車したい人のニーズが全くないような場所ということです。
地主さんも都内で商売をやっている方なので、たぶんこちらの周辺状況はほとんど知らないと思われます。

・・・で、そんな場所にもかかわらず、「時間貸しにすればもうかりますよ!」と営業をかけるような業者がいたということです。もしも作り変えたとすれば、初期投資の設備費用や工事費用などで業者はもうかりますが、車を止める人がいるとは思えないので、地主さんはたぶん損をします。相手が事情にうといのを良いことに、こんな話を進めてしまうような業者では、「契約さえ取れればそれでいいのか!」という感じです。

つい先日も、竜巻被害の地域で悪質なリフォーム業者が横行してトラブルになっているという話を聞きましたが、最近はビジネス上のモラルが下がっていると思われるような話題をよく聞きます。
これも厳しい経済状況の影響なのかもしれませんが、やっぱりお互いがWin-Winにならないようなビジネスはダメだと思います。

私は、「この人、この会社と長い付き合いをする事ができそうか」を、仕事をする上での一つの尺度にしています。結果的に取引が続かなかったり、ご縁が切れてしまうことはありますが、おかげで一方的に損をするような目にあったことは、今のところありません。もちろん運が良いだけかもしれませんが、目先のことだけに左右されずに相手をよく見れば、おかしなことに巻き込まれる頻度は、ずいぶん減らせると思います。

そんな自分の考えをあらためて確認しましたが、今一度、「売れればそれで良いのか?」と問いかけたいです。