2013年7月31日水曜日

初めは嫌でもやってみるとそうでもない


私が新卒採用をお手伝いする時、説明会の進行をお任せいただくことがあります。その際参加者の緊張をほぐすために、簡単な自己紹介をやってもらうことがあります。決められた時間内に決まった内容だけで、できるだけたくさんの人と紹介し合うというルールでやります。

参加者の大半は、たぶん本音では初めものすごくイヤイヤです。言われたから仕方なくやっていますが、終わってみるとみんな明るい顔になり、お互いに何となく和みます。
その時私がお話するのは「たぶん仕事になれば、初め気が進まないこと、不安なこと、できればやらずに済ませたいことにはたくさん遭遇するが、イヤイヤでもとりあえずやってみると、意外にそれほどでもない、意外に簡単だった、楽しかった、向いているかもしれない、なんてことが結構多いはずなので、まず初めの一歩を勇気を出して踏み出すことを心掛けると良い」ということです。これは自分への戒めも含めての言葉です。

私の場合は、たぶん就職に際してのことが一番これに当てはまり、当時はサラリーマンが嫌だし向いていないと思っていて、それでもやったことがないのに向いていないというのは説得力がないと考え、とりあえずのつもりで就職しましたが、結果的にはその後独立までの20数年間勤務することになりました。今の自分があるのはその間の経験があってこそですし、本当に向いていなかったらそんなに長く勤められなかったと思います。独立した今でもお付き合いするのは企業の方々ばかりですし、どんな組織の中に入っても、やっていける自信はあると思っています。それも実際に経験したからこそ言えることです。

私の場合、その当時は何となくイヤだということ以外はそれほど深くも考えていませんでしたが、今振り返れば人生を左右するくらいの大きな選択になっています。
ほとんどの人にとって、それほど大げさなことばかりではないと思いますが、「初めは嫌でもとりあえずやってみる」という姿勢は、結構大事ではないかと思っています。


2013年7月30日火曜日

「ゆとり世代」をひとくくりにする失礼


企業の人材育成に関わっていると、「ゆとり世代は・・・」という話題が出ることがあります。

肯定的な話はほぼ一切なく、「受け身で言われたことしかやらない」「打たれ弱い」「失敗を恐れてチャレンジしない」「競争心がない」など、「だからゆとり世代はダメなんだ!」というようなダメ出しの指摘が大半です。

でもこれって、その世代に人たちに対して、ものすごく失礼で差別的な指摘だと思います。そもそもゆとり教育を受けてきた人たちは、自分で選択してその教育を受けてきた訳ではありません。大きな枠組みで決められたことに従ってきただけで、自分たちに選択の余地があった訳でもなく、与えられた環境の中で自分たちなりに頑張ってきただけです。それを今さらダメだしされたって、本人たちには全く責任はありません。

確かに一般的に指摘されるような特徴はあるにはあるし、私自身の経験でも「何考えてんだ??」と思うようなこともありました。でも短所を裏返せば長所になります。

「言われたことしかやらない」けど「言われたことはしっかり一生懸命やる」
「チャレンジしない」けど「堅実である」
「競争心がない」けど「協調性がある」
など。
言われればやるんだからちゃんと指示すれば良いし、失敗を恐れるなら恐れなくても大丈夫な環境を作ってやれば良いし。競争ばかり煽らずに協調を促せば良いのではないかと思います。

言われる内容こそ違いますが、どんな世代であっても何かしら同じように批判的なことを言われてきているはずです。それを棚に上げて「ゆとり世代は・・・」なんて言っているのは、対処する側の能力のなさを白状しているようなものだと私は思います。
世代をひとくくりにして批判する言動の裏には、指導する側の怠慢もずいぶんあるのではないかと思います。


2013年7月27日土曜日

「叱られるとやる気を失う」などと言われても・・・


日本生産性本部が行った「職場のコミュニケーションに関する意識調査」の中で、課長に対して「部下を叱ることについて、どのように考えるか?」という尋ねたところ、89%が「育成に繋がると思う」と回答し、反対に一般社員に「上司から叱られると、どのように感じるか?」と聞いたところ、56.8%が「やる気を失う」と感じていると回答したそうです。ただし42.4%は「やる気になる」と回答していて、感じ方が二分されているのだそうです。

この結果の分析として、「“叱ること”による育成法も一定の効果はあるが、半数以上が“やる気を失う”と答えていることを考えると、部下一人ひとりにあった育成法を考えることが重要だ」とのことでした。

 これを見て、「叱られるのは自分たちが悪いからでしょ!」「こっちだって言わないで済むなら言いたくないよ!」「君らのためを思って、あえて言ってやっているのに!」なんていう管理職の方々は大勢いらっしゃると思います。こんな調査結果を出されても、「じゃあ、どうすりゃいいの!?」という思いもあるのではないでしょうか。

私がこの結果を見て思ったのは、こうやって漠然と聞かれると評価は二分されるかもしれないが、こんな場面でこんな言い方でという具体的な条件が示されていると、その条件によって結果が変わってくるのではないかということです。「叱られるとやる気になる」と答えている全員が全員、何を言われてもやる気が出るわけではないでしょうし、「叱られるとやる気を失う」といっている人が、すべての場面でそうだとは限りません。

もう少し言うと、自分が思い浮かべた上司、叱られた場面によって、感じ方が左右されるのだと思います。過去からの経験も含めて象徴的なところで感じているのでしょうが、半数以上の人は、やる気がなくなるような叱られ方をしているということなので、これはこれで問題があると思います。

叱るということは、本当に難しいと思います。管理者として部下に言うべきことは言わなければなりません。ただ、その意図が相手に伝わっていなければ感情的なしこりを生むだけで、あまり効果的とは言えません。「叱ることが育成につながる」と管理職は思っていても、それが部下に伝わっていなければ、単に“言葉での体罰”のようなものです。

「叱られる」というのは、本人にとってうれしいことではありません。それでも納得できる「叱られ方」というのは、その内容に対してだけでなく、誰に言われるか、その話し口調や言い方、ニュアンス、どこで言われるか、いつ言われるか、一対一か、みんなの前か、など、いろいろなことが絡んできます。
例えば、大して重要とも思えない内容で、夜中に上司から家に電話がかかってきて叱られたとしたら、話の理屈は合っていても反感を持つのが普通でしょうし、たぶんやる気はなくなり、そんな上司とはできるだけ接したくないと思ってしまうのではないでしょうか。

やっぱり結論は、この調査の評価にもある通り、「部下一人一人に合わせた方法で」というところです。あり来たりではありますが、日頃から部下とコミュニケーションをとって信頼関係を作り、いざという時に叱ることができるようにしておくことが大事だと思います。そうは言っても人間同士の相性はありますから、すべて自分でどうにかしようとせず、“他人の口を借りる”というような工夫も必要かもしれません。

こんな調査結果を見ると、ついつい叱ることを躊躇してしまいますが、それも決して良いことではありません。やっぱり見て見ぬふりだけは絶対にダメだと思います。


2013年7月26日金曜日

就活生の「すっぽかし」は当たり前のままで良いのか


就職活動中の学生さんたちは、まだまだ暑い中を頑張っています。今の就職活動は本当に大変なので、何とか希望にかなう会社が見つけられれば良いなぁと、いつも応援する気持ちで見ています。

そんな気持ちを持ちながら、私も長らく新卒採用にかかわってきましたが、いくら善意に解釈してもどうしても納得できないことが一つだけあります。学生さんたちの説明会や面接への“無連絡”“ドタキャン”です。

今年もある企業の新卒採用をお手伝いしていますが、ウェブ上の説明会予約はずいぶん前から満席なのに、当日来ない人がたくさんいます。時によって半数近い人が来ないこともあり、事前連絡はない人がほとんどです。連絡をもらえたとしても、前日夜中のメールだったり、開始直前の電話だったり、会社としてはどうにも対処しようのないことがほとんどです。

他社の状況をいろいろなところから聞いても、夏場のこの時期だと5~6割くらいの出席率という会社はたくさんあり、業種や職種によっては半分来ればいい方だというところもあるようです。就職環境がさらに厳しかったと言われる昨年でも、やっぱり同じような状況があります。面接においても説明会ほどではないにしろ、連絡なしのドタキャンは結構な数であります。

企業の人事担当者というのは、もうそれが当たり前の慣れっこになってしまっていて、そんな状況を見越して定員を決めたりしていますが、普通に考えればお互い約束をしていて、それを連絡なしですっぽかすなんてことは、普通の仕事上ではあり得ません。プライベートな付き合いでも、基本的には同じでしょう。でも就職活動ではそんな「すっぽかし」が当たり前になってしまっています。

学生さんにもいろいろな事情はあるでしょう。急な学校の用事が入った、志望度が高い他社の選考で急に日時を指定された、内定が決まった、行きたくなくなった、体調不良やその他の事情など・・・。でもそれに対して、何か対応ができないものかと思います。もしかすると、予約がいっぱいだったために、説明会に参加したくてもできなかった他の学生さんがいることだってあり得ます。

会社説明会に参加予定の学生さんに対して、会社はお客様としてそれなりの準備をしてお迎えします。面接でも相応の役職者が、どんなに忙しくてもスケジュールを空けてお待ちします。初めから来ないとわかっていれば準備はしません。こんな相手の事情にも少しだけ思いをはせて欲しいです。

私がお手伝いしているいくつかの会社の新入社員にこのことを聞いてみると、どうしても抜けられない学校の研究や他社の選考が入ってしまい、直前にキャンセルの連絡をした経験がある人は何人かいましたが、すっぽかしたことがある人は一人もいませんでした。みんな「周りにそういう人はいたけど、自分はしなかった」と言っていました。

就職活動の成否というのは、実はこんなごく当たり前のマナーや気遣いが、できるか否かにかかっているのではないかと思います。


2013年7月24日水曜日

“小さな事”を徹底する‏と“大きな事”が変わるかもしれない


あるコラム記事で、現場力を組織の力に高めるという視点で、ニューヨークの治安改善に関する取り組みの話が書いてありました。

そもそもは地下鉄の凶悪犯罪の抑制が発端のようですが、「ブロークンウィンドウ(割れ窓)理論」といって「建物の窓が壊れているのを放置すると、誰も注意を払っていないという象徴になり、やがて他の窓もまもなく全て壊される」という理論に基づき、第一弾として地下鉄の治安悪化の象徴である“落書き”を徹底的に消す活動、第二弾として落書き行為、車内喫煙、無賃乗車といった軽犯罪だけを徹底して取り締まる活動を行ったところ、犯罪率は徐々に減少し、劇的に治安が改善していきました。

その成果を見た市長が、今度はこの方法を市警察にも取り入れ、落書き消しや歩行者の信号無視、ゴミの投げ捨てなど、軽犯罪の取り締まりを徹底的に続けた結果、犯罪発生件数が急激に減少したということです。

札幌のすすき野地区でも、“落書き”“違法駐車”に置き換えて、徹底的に取り締まる活動を行ったところ、2年間で犯罪を15%減少させることができたということです。

はじめは「そんなことはやっても無駄」「凶悪事件を減らすことが先決」などの否定的な意見も多かったようですが、小さなことから徹底してやると、それが大きな課題の解決に波及していくことがあるという例です。

組織においても、課題は認識していてそれに向けた対策も考えてはいるものの、検討に時間ばかりかかっていたり、「難しい」といったりして、結局何もせずに先送りしてしまっていることは意外に多いものです。
ただ、根本的な解決にはつながらないと思えることでも、枝葉の小さなことであったとしても、まずはそれを徹底することが、大きくて困難な課題の解決にまでつながることがあるという一例です。

「拙速であっても、目に見えている課題からとりあえず手をつけてみる」ということも、必要ではないかと思います。


2013年7月23日火曜日

“ブラック企業”はあるが“ホワイト企業”の方はあるのか?


“ブラック企業”という言葉、ポピュラーなものとしてすっかり定着してしまいましたね。この反対語はたぶん“ホワイト企業”だと思うのですが、こちらは耳にする機会が少ないように感じます。

ネットで“ホワイト企業”を調べてみると、それなりにいろいろな情報が出てきました。やはり基本的には優良企業といわれる会社に関する事柄ばかりです。“ホワイト企業ランキング”というようなものもあったのですが、その中身は「新卒の離職率が低い企業」のランキングでした。確かにすばらしいことには間違いありませんが、これをもって“ホワイト企業”と言いきって良いのだろうか・・・。少々疑問に感じてしまいました。

私もいろいろな会社とお付き合いさせて頂き、みんなそれなりに優良企業ばかりですが、「ではそれがホワイト企業か?」と問われると、必ずしも肯定できることばかりではありません。いろいろな理由で辞める人たちはいるし、それは必ずしも良い辞め方ばかりではありません。程度の差はありますが、どんな会社でもハードワークはあります。法律的にもすべての会社が制限速度以内で走っているとはいえません。

ブラック企業といわれてしまうような会社は、確実に存在するだろうと思います。会社と社員の間で、常識では考えられないような主従関係を強いる会社の話は確かに耳にします。
ただ、逆にホワイト企業といわれると、これはこれでなかなか定義するのが難しいと思います。どんな条件ならホワイトなのかということが、あまりにも抽象的でなおかつ複合的です。
例えば
「給料が高くて人は辞めないけど、労働法規にルーズな会社」
「人間関係は和気あいあい、ストレスがないけど給料が安い会社」
「知名度があって雇用も業績も安定しているけど激務の会社」
「仕事は面白いが、業績が悪くていつ潰れるかわからない会社」

みんなある点ではブラックですが、ある点に限定してみれば良い会社でホワイトともいえます。
ただ、このように少しでも危うさがあるような会社、悪意があるのかないのか何とも言えないような会社は、きっと今はすべてブラック企業に分類されているのだと思います。結構厳しい基準だなぁと思います。

私は“ブラック企業”を擁護するつもりは全くありません。そんな会社は消えてなくなれ!とさえ思います。ただ、こうやって両面から見ると、“ホワイト企業”と言われるには、相当にハードルが高いと感じます。もしも自分が相応な規模の会社の経営者だったとして、その会社を“ホワイト企業”と呼べるようにできるかどうか・・・あまり自信がありません。

“ブラック企業”は、そのブラックの中身を冷静にじっくり見る必要があるように思います。そうでないと、世の中の会社はみんなブラック企業になってしまいます。それでは経営者たちはあまりにもかわいそうだし、働く人たちにとっても、夢や希望が無くなってしまうように感じます。


2013年7月20日土曜日

「緊急性」と「重要性」の話でのちょっと異質な反応


 ある会社の研修で、仕事の優先度の話をしました。仕事の「緊急性」と「重要性」で判断する仕事の優先度の話です。

ご存知の方も多いと思いますが、多くの組織では「仕事の優先度」を決める時に、その仕事の重要性(大事かどうかの程度)でなく緊急性(いつまでにやるかの期限)で決めてしまうことが多いというもので、「本当は重要な事の方を優先すべきじゃないの?」というお話です。

「緊急だけど重要でない仕事」と「重要だけど緊急でない仕事」のどちらを優先しますか、と問いかけると、大体の人が「あっ・・・」という感じで考え込みます。たぶん、「そう言われれば目先のことに振り回されて、本当に大事なことに取り組んでいないかも・・・」と思うのでしょう。

しかしこの時は反応がちょっと違っていて、全員があまり躊躇なく「緊急の仕事が優先」と答えました。よくよく考えると、そういう反応になりがちな背景が、実はいろいろありました。

まず、この時の参加者は現場の一般社員の方々で、日々上司や先輩からの指示を受けながら仕事をする立場の人だったこと。さらに仕事柄として細かい案件が多数で、なおかつ一つ一つの期限が厳格に問われ、常に納期を意識して緻密に仕事を進めていかなければならない仕事内容だったこと。おまけでそんな仕事柄を反映してか、真面目でコツコツ型の性格の方々が多いこと、などがありました。

この時はもう少しかみくだいた説明として、「“緊急だけど重要でない仕事”には、やらなくても影響が少ない仕事、自分でない誰かにやってもらっても良い仕事が含まれている可能性がある」というような話をしたところ、そこで初めて「あっ・・・」という反応になりました。それなりに理解してもらう事はできたのだと思います。

この時の参加者のことを考えると、たぶん「緊急だけど重要でない仕事」身近にはほとんど無かった、もしくは思いつかなかったのだろうと思います。こちらの思い込みで、教科書通りの答えに導こうとしても無理があったということです。

自分たちにとっては当たり前のセオリーのようなことであっても、相手の感性や背景をしっかり理解して、相手に合わせて丁寧に伝えることが大切だと改めて感じた一件でした。

2013年7月19日金曜日

「どうせ・・・」という言葉の悪影響


 ある会社の社長さんから、「管理職クラスが新人の若い社員のやる気を削いでしまう」というお話をうかがいました。聞けば、「そんなことやっても“どうせ”無駄だ」「そんなお客は“どうせ”契約に結びつかない」など、悟ったような話を訳知り顔で若い社員たちにするのだそうです。

 善意で解釈すれば「効率を考えている」ともいえますが、私はこの「どうせ・・・」という言葉が気になります。特に会社や仕事の場面で言われる「どうせ・・・」の後には、だいたいが「無駄だ」「止めよう」「あきらめよう」「仕方がない」など、現状をネガティブに捉える言葉がつながるからです。
“どうせ○○だから・・・”といって行動することをやめ、思考を停止します。自分と周りのやる気や熱意を消してしまいます。他責や一方的な不満につながることもあります。

「どうせ・・・」という言い方が口ぐせになっている人がいます。個人の場合もあるし、組織全体がそうなっていることもあります。
言葉というのはとても大事で、言い続けると自己暗示にかかります。「無理だ無理だ」と言い続けると本当に“無理”になります。一方「できるできる」と言い続けたからといって、本当に“できる”かはわかりませんが、少なくとも“できる”ようにするための行動は続けます。

こんな風に「言葉を変えると行動が変わる」という面があります。ネガティブな口ぐせというのは、意外に本人が無意識のうちに出てしまうものですが、これを意識して変えるだけで、行動はずいぶん変わってきます。口ぐせに気づいて、それを言わなくするだけでもずいぶん違うはずです。

こちらの会社でも、この「どうせ・・・」発言を禁止してみるだけで、実は問題の多くが解決されるような気がします。


2013年7月17日水曜日

多彩過ぎて難しいリーダーシップ論


ある程度の社会人生活を過ごした方であれば、リーダーシップに関する本の何冊かを読み、研修のいくつかを受講した経験は、たぶんお持ちだろうと思います。

私もリーダーシップをテーマにした研修など行うこともあり、常に情報収集をします。そんな中で、先日も書店に行った時にあらためて思ったのは、「リーダーシップ論は多彩過ぎて、正解が良くわからない」ということです。

「リーダーシップ」をテーマにした書籍というのは本当にたくさんあります。いくつか手に取って見ると、“率先垂範”とあったと思えば“部下にまかせろ”とあったり、“厳しさ”を前面に出したものがあるかと思えば、“対等な関係が重要”とあったり、“人間の器の大きさ”を強調していたかと思えば“器ではない”とあったり、本当に多種多様です。

研修でも同様で、体系的にうまく整理されたものがいくつもあり、基本的にはどれも「なるほど」と思うものばかりで、はっきり言って何が良いやら悪いやらはわかりません。いや・・・きっとみんな正しいのだと思います。

そんな中で、私が「リーダーシップ論」をテーマにする時は、本当に共通的で基本的な考え方の解説はしますが、それ以外はあくまでいろんな考え方を紹介することに徹するようにしています。
なぜそうしているかというと、もちろんいろいろ見てきた中での自分の好みはありますが、結局「リーダーシップ論」語っている人が教祖の「自分教」のようなもので、それならばいろいろな“教義(その人のリーダーシップの考え方)”を幅広く知った方が、何かと役に立つように思うからです。

もちろん一つの“教義”を突き詰めることで良い結果を得る人もいるでしょうし、「信じる者は救われる」なんてことも言いますが、こんな宗教チックな要素があると、ちょっとした考え方の違いで排他的になったり、他者否定を始めたりすることも起こり得るように思います。せっかく多彩なノウハウがあるのに、それはもったいないと思います。

やはりリーダーシップのように、正解が何かがわからないような事柄だからこそ、いろいろな考え方を知っておくことが大切ではないかと思います。


2013年7月16日火曜日

内定は取るもの?いただくもの?


ある会社の新卒採用面接をお手伝いする中で、何となく気になったことがありました。

こんなやり取りが、一人だけでなく何人もの方々とありました。

面接官(私):「今、内定が出ている会社はありますか?」
学生さん  :「いいえ。まだ内定は取れていません」

「ああ、なかなか内定が出なくて、やっぱり厳しくて大変なんだな」ということはもちろんありますが、私、この「取れていません」という言い方に、ちょっと反応してしまいました。
「内定って、いつから“取るもの”になったんだろうか・・・」と。

たぶん、今の学生さんの間では、ごく普通に「内定が取れた!」「まだ取れてない」という会話がされているのだと思います。学校の就職指導などでもそういう言い方をするのかもしれません。

でも自分たちの頃も含めて、ほんの少し前まではどうだったかを思い返すと、内定は「もらう」「いただく」という言い方が多かったと思います。良し悪しは別にして、あくまで最後は会社が決めることという感じの受け身のニュアンスでした。

それに対して「内定を取る」は、より主体的に自分たちの力でアグレッシブに、「勝ち取る」感じのイメージです。やっぱり就職活動の厳しさを象徴していて、受動的に「いただく」ではダメで、自分で積極的に「取る」つもりで行かなければならないということのように思います。

ここからはちょっと屁理屈ですが、これを会社側から見ると、内定を「もらう」「いただく」に対しては「あげる」「差し上げる」側ということになります。でも内定を「取る」と言われると、会社は「取られる」側?ということになります。何かちょっと変な感じです。

また内定を「取る」とは言っても、今の環境ではどちらかというと、相手にできるだけ合わせて何とか気に入ってもらおうという形になってしまうように思います。ついついイーブンな関係性ではないと感じてしまいます。

私はいつも申し上げるのですが、採用活動においては、会社が威張って応募者がへりくだっていても、応募者が強気で会社がそれに媚びていても、そのどちらの場合もダメで、採用する側とされる側の対等な関係性を保つということが、採用活動を成功させる大事な要素としてあります。

しかし実際には、その時々の力関係にどうしても左右されてしまうので、会社と応募者の関係性はいびつになってしまうことが多いものです。普通は雇う側である会社の立場の方が強くなりがちですから、良い関係性を保つのはひとえに会社側の意識にかかっているというところがあります。

内定を「取る」でも「いただく」でも、そんなのどちらでも良い些細なことかもしれませんが、面接のちょっとしたやり取りの中で、今の難しい雇用環境を感じてしまいました。


2013年7月13日土曜日

好奇心が足りないと感じる一つの理由


同じ会社や友人同士のグループなのに、お互いにほとんど会話をしない様子を見受けることがあります。こういうことが増えてきたと感じるようになったのはずいぶん前からです。

具体的には、昼食時のお店で見かけるグループや、ちょっと休憩でカフェなどに立ち寄っているようなグループを見ていてのことで、お互いにほとんど会話をしないで携帯やスマホをいじっている、雑誌やマンガを読んでいるというような光景です。全然会話をしないので、「あれ? 知り合いじゃなかったのかな?」と思っていると、お互いに目配せして一緒に席を立っていくので、仲間同士には間違いありません。

今さら始まったことではありませんが、こんな様子を一言で言えば「周囲への関心」が薄いということです。公園にみんなで集まっているのに無言でゲームをしている子供たちが結構いますが、これも同じ感じがします。電車内や公共の場でのマイペース行動なども、周囲の目をあまり気にしていないということなので、基本は同じなのかもしれません。

「周囲への関心」というのは、「好奇心」ともいえます。どちらも日常生活や仕事上の課題、テーマを見つける上では、その源泉ともいえることです。これが欠けていると、特にビジネス上では「問題意識がない」とか「ニーズをつかめない」などという大きなことばかりでなく、日常業務でのちょっとした行動にも多々影響があります。

例えば、人と一緒にいても会話しないことが普通の感覚になっているので、これから関係づくりをしようというお客様相手に、いざ世間話などをしようとしても話題が見つけられません。相手の気持ちをはかることに慣れていないため、往々にして“気が利かない”などと言われてしまいます。自分ではテーマが見つけられないので、自律的には動けません。
もちろんこういう人は昔からいましたが、やはりこの手のタイプの人が少しずつ増えてきているような気がします。

最近、定期的な「ランチミーティング」を義務づけている会社があるという話を聞きました。ついつい大きなお世話ではないかと思ってしまうのですが、仮に一緒に食事に行っても、本人たちの好きにさせておくと一言もしゃべらない訳ですし、場合によっては一緒に行動もしない訳ですから、こんな取り組みで強制的にやらせることも必要なのかもしれません。

特にコミュニケーションのように、今までは自然に任せていれば徐々に身についていたことが、それではなかなかうまく行きづらくなってきています。「周囲への関心」「好奇心」が薄いので、本人の意識だけではなかなか気づきにつながりません。コミュニケーションの取り方など、今まで自然に任せていたことでも、それらを意図的にやらせる工夫がますます必要になってきているように思います。


2013年7月12日金曜日

信賞必罰の「罰」


 このところ、体罰に関する問題が多く語られています。体罰というのは、基本的に「威圧と恐怖による支配」だと思うので、良い効果を生むとは思えませんし、コミュニケーションの取り方としても論外だと思います。罰という事がいったいどういうことなのかを良く考える必要があると思います。

話は少し変わりますが、主に経営者の方々から「信賞必罰」という言葉を聞くことがあります。「信賞必罰の企業風土にしたい」「信賞必罰の人事制度を!」などと言われます。

「信賞必罰」を辞書で引くと、“賞罰を厳格に行うこと。賞すべき功績のある者には必ず賞を与え、罪を犯し、罰すべき者は必ず罰するという意味”とあります。

組織における「功績」というと、業績向上、能力向上、発明、発見、社会貢献、その他いろいろ思いつきます。程度の差はあったとしても、少なくとも今までより良くすることができた事柄ならば、それはみんな「功績」として見る事ができると思います。

一方「罪」といわれるとどうでしょうか。不正、怠慢、ルール違反などは明らかに罪といえるでしょうが、業績不振、能力の伸び悩みなどは罪になるのでしょうか? 
やっぱりサボっていての業績不振と、頑張ったが結果が出なかったのとは違うと思います。単純に結果だけに注目して、それをもとに罰を与えたとしても、罰によってその後良い方向に転換できるとはあまり思えません。最低限の罰は必要としても、「罰がある企業文化」「罰がある人事制度」が良い効果を生むとは思えません。

失敗に対して「責任を取る」といいますが、結局これは「うまくいかなければ罰を受けます」という宣言なわけで、その罰というのは、会社でいえば、減俸か、降格か、それとも辞めるかのいずれかの方法しかないと思います。でもそんなことをしても、少しだけ会社の人件費が減るくらいで、大したメリットもありません。
時の首相が「私の責任で・・・」なんて言っていましたが、結局は辞めちゃえば済むんでしょ! なんて思ってしまいます。場合によっては、どんな立場でもやり続ける事の方が、よっぽど責任感があるように思います。

こうやってみると、「賞を与える」ということは、比較的多くの賛同や好感を得て実行しやすく、「罰を与える」ということは、何が罪かの線引きが難しく、そのプラス効果というのも少ないと感じます。
最近よく言われる「褒めて育てる」も、こんなところにもつながるのかもしれません。

「信賞必罰」という言葉は、一見毅然とした態度を示す良い言葉のように聞こえますが、そこでいう罰とは何なのかどういう行為が罰に値するのかをしっかり見極める必要があると思います。組織運営においては、特にそう思います。


2013年7月10日水曜日

これも就職活動に対する誤解?


わが家の長女は今度大学受験ですが、そんな中で聞いた話です。

高校の先生からの受験指導の中で、指定校推薦なんかで大学に行くと、就職のときに“受験しないで楽をした奴”とみられるから、一般入試で受験をした方が良い」というような話をされたそうです。うちの娘はその話を素直に受け取れず、「そんなことってあるの?」と思ったようです。

私は長年採用に関わっていますが、指定校推薦と聞いたら「ああ、高校時代に毎日の勉強をコツコツ頑張ったのね・・・」と思います。もしもその人の大学の成績があまりにひどかったりしたら「反動で遊んじゃったのね」と思うかもしれませんが、他に何か打ち込んだこと、頑張ったことがあれば「そういう取り組みもあるな」と思うし、そんな一部の経歴だけですべてが決まる訳ではありません。

もちろん、この高校の先生が言うような判断基準で選考する会社もあるかもしれません。でも世の中の会社すべてが同じ価値観ではないし、自分と価値観が違うような会社に無理して入る必要もありません。ここからは私個人の感想ですが、こういう判断基準は一種の偏見だと思うので、「そんな会社、別に入社できなくたっていいんじゃない?」と思います。

就職活動の中で、こういう都市伝説に近いような話は結構たくさんあります。企業の選考結果に対して、合否の判断基準やなぜそうなったかという理由は、外からはなかなかわかりづらいので仕方がない面はありますが、それでも学校の先生までがこんな“誤解”に近い話をしてしまうというのは、やはりあまりよろしくないことだと感じます。うちの娘は素直に受け取れませんでしたが、真面目に受け取っている人もたぶん大勢いるでしょう。

こういう話の背景には、やはり就職活動の中での企業側の動きが、外からはあまりにもわかりづらいということがあると思います。そのせいでごく一部の特殊な例が、いつの間にか一般的な事例として扱われていたりします。企業の振る舞いのせいもあるし、マスコミの煽りみたいなものもあるし、問題は一つではありませんが、変な誤解は少ないに越したことはありません。

例えば、常識的、良心的に採用活動をしている大半の企業が、もう少しだけ外部への情報提供の努力をすれば、おかしな誤解はもっと減っていくと思うのですが・・・。


2013年7月9日火曜日

上司や会社への報告、社員への報告


報告することの大切さは多くの場面でいわれ、それゆえに報・連・相などをテーマにした各種研修が実施されていたり、多くの報告書類や会議があったりします。確かに報告しなければならないことはたくさんあります。勤怠、出張、営業状況、作業状況、顧客動向、予算実績、部門業績など多岐に渡り、報告のタイミングも日報、週報、月報、四半期、半期、年間、その他日常業務の中でも折りに触れて行われます。

組織規模の増大や会社の成長とともに、無駄な報告書や会議が増えてきたり、報告そのものが形骸化してきたりということも言われます。報告にまつわることに多くの時間を費やしているにもかかわらず、あまりその情報を活かした組織運営になっていないなど、報告のやり方や扱い方には多くの問題点が挙げられます。それはそれで大きな問題ですが、今回はそことはちょっと違う視点で、「社員に向けた報告」という話です。

・・・というのは、前に挙げた様々な報告については、ほぼすべてが上司や会社に向けたもので、逆に「社員への報告」というのは圧倒的に少ないか、もしくはほとんど行われておらず、会社で行われる報告が、あまりにも一方通行ではないかということです。

組織の管理者、決裁権者が適切な判断をするためには現場の状況把握が重要で、そのためには部下からの適切な報告が欠かせないということについては異論ありませんし、そのための仕組みや決まりは様々作られていると思いますが、その逆方向で、上司や会社から社員に「報告」するということを、きちんとした仕組み、決まりとして行っていることは非常に少ないように思います。会社から個別の事柄についての指示はあるでしょうが、部下に何をどうやって知らせるかということについて、たぶん大部分が上司の個別判断に委ねられているのではないでしょうか。

社員に向けた「報告」というのは、伝達事項や周知事項という場合もあるでしょうし、現状認識の共有、情報共有ともいえますが、現場からよく聞くお話で、「○○部はちゃんとやるけど、××部はきちんと伝わらない」「△△部長はいいけど、●●部長はあまりきちんとやらない」など、所属部門や管理者の姿勢、能力による取り組み差があります。会社の所管部門から紙一枚の書面が出され、管理者はそれを配るだけなんてことも珍しいことではありません。

管理者は皆さんお忙しいでしょうし、会社として部下や社員には言えないこともあるでしょうが、社員からの報告を強く求めるわりには、社員に対して伝えることをサボっている傾向があるのではないでしょうか。また、会社や上司に対する報告書は仕組みとして定められていても、その逆が仕組みとなっている企業は非常に少ないのではないでしょうか。

もしも社員間の不満や他部門批判が強い、もしくは社員の視野が狭い、全体の事を知らない、興味を持たないなどということがあるならば、「社員への報告」というところに問題があるかもしれません。そんな状況があるならば、「社員への報告」の書式や内容を定め、頻度や実施方法などを仕組みとして決めていく必要があるのかもしれません。ちょっと見過ごしがちですが、意外に大事なことではないかと思います。


2013年7月6日土曜日

良かれと思っての逆効果


「せっかくやってやったのに何だ!」「こちらの気も知らないで!」
怒りの程度は様々ですが、こんな話を時々聴きます。

何についてかというと、社員旅行や飲み会、社内レクレーションなど、福利厚生やコミュニケーション向上を考えた社内行事について、経営者や管理職の方々がおっしゃることです。

つい先日もある会社の部長さんが、「どうせ若い子たちはお金がないし、たまにはいい店でご馳走してやろうと思って誘ったのに、みんながみんな断ってきた」と嘆いていました。
ある社長さんは「全額会社持ちの忘年会をやって、自分がお勘定をして表に出たら、社員は全員解散したあとだった。せめてお礼ぐらいないのか!」とおっしゃっていました。

せっかく良かれと思ってやっているのに、結果がこれでは逆効果という感じがしてしまいます。「常識がない!」「礼儀知らず!」なんて言いたくなる気持ちもわかりますが、こうなってしまう場合の共通点には、相手の感じ方への配慮が足りず、こちらの考え方で一方的に進めていることにも原因があると思います。相手には相手の考え方、都合があります。

飲み会の例で言えば、「いい店でご馳走してもらえる」をメリットだろうと思う部長さんに対して、もしかすると部下の人達は「急に誘われても・・・」「部長と飲むのはなぁ・・・」「別にそんな店じゃなくても・・・」などとデメリットの方を大きく感じているかもしれません。

忘年会の例でも、社長さんは「全額会社持ち」という配慮をしているつもりなのに、社員にとっては「強制的に参加しろっていうこと・・・?」などと思っているのかもしれません。
いつも喜んでついてきていると思っていた部下が、実は気を遣って無理して付き合っているのかもしれません。やっぱり相手には相手の感じ方があります。

ただ、相手のことばかり気にし始めると、今度はなんにもできなくなってしまいます。「自分たちに付き合うのはわずらわしいんだろうな」なんてことばかり思って、気を遣って遠慮ばかりしていると、相手とのかかわりの頻度はどんどん少なくなり、お互いの関係もつながりも弱くなってしまいます。これでは良いはずがありません。

こういう場合の対応の一つとして、私はできるだけ「相手に委ねる」ということを考えるようにしています。例えば「今度みんなが行きたいお店でご馳走するから、日にちとメンバーを決めて」などと頼みます。こちらの方が上の立場になりそうな関係の時ほどそうします。
もちろん相手は面倒とか気が進まないとか思うかもしれませんが、自分たちでメリットを増やせる余地はあります。それは「どうせだからたかっちゃえ」でも良いし、「ちょうど行きたい店があった!」でも良いのです。遠慮して声をかけずにコミュニケーションの機会を無くすよりはよっぽど良いです、

ある会社では、社内行事の企画内容に会社は一切口を出さず、幹事をすべて社員に任せて、会社からは経費補助だけをする形に変えたところ、社員からの評価が上がり、参加率も向上したケースがあります。
一方、これと同じように社員主体で実施しているのに、社員が今一つ積極的でない会社もあります。どうも「こうやるのが当たり前」「これは外せない」など暗黙の縛りが多々あって、幹事はただ決められたことをやるだけになってしまっているようです。やらされ感ということです。

こうやって見て来ると、やはり「相手に委ねる」「裁量を与える」という事は、何事においてもとても重要な事だと思います。

「この店、高いんだぞ」なんて言いながら自分に行きつけの店に連れて行くより、相手のテリトリーに入っていく、相手のペースに合わせるということも必要です。うまくすれば、初めは身構えて疎遠だった部下たちとも、うまくお近づきになるきっかけにできるのではないかと思います。


2013年7月5日金曜日

見た目だけではわからない相手同士の関係


我が家には3匹のイシガメがいます。オスが1匹にメスが2匹、3年前に亡くなった父が飼っていたものがうちにまわってきました。水替えなどは多少面倒ですが、それ以外に何か手がかかる訳でもなく、重なり合って甲羅干しなどしているので、「ああ仲良しでいいね」なんて思ってみていました。

ところがカメというのは、群れを作って生活する生き物ではないので、実は排他的単独行動しかしないのだそうです。一見群れになって見えるのも、日当たりが良い安全な場所、自分にとって都合の良い場所がたまたまかぶっただけなんだそうです。人間が勝手に「くっついているから仲が良い」とか「群れでいれば寂しくない」とかを思っているだけなのだということです。そういうことを知った上で見ていると、確かにお互いが自分の都合だけで勝手に動き回っていることがわかってきます。見え方は先入観でずいぶん変わるものだなぁと思います。

同じようなことが人間同士でもあります。例えば最近のいじめ問題では、先生たちが暴力の現場を実際に目撃していても「ふざけているんだと思っていた」という人がたくさんいました。確かにうわべだけを見ていて、生徒個人に対する思い込みや先入観「そんなことになっている訳がない」と思ってしまうことがあるのでしょう。深入りしないからよくわかっていない、なんてこともあるのかもしれません。

学校でも会社でも、その他いろいろな人間関係の中で、仲良しと思ってみていたら違っていた、うまくいっていると思っていたらそうではなかった、なんてことはときどきありますが、やっぱり表面的なことだけを見ていて、先入観で勝手にそう思っていたということなのでしょう。また、こういう時に限って、後から実態を聞くと「そういえば・・・」「あの時・・・」などと気づくことが多いのではないでしょうか。

ということで、今回の結論は「うわべだけを見た先入観にとらわれず、しっかり本質をみましょう!」ということで、ものすごくありきたりなのですが、やはりそう簡単にできることではありません。私はせめてこういうことを頭の片隅において意識するようにしようと思っていますが、のんびり重なり合っているカメを見ていると、ついつい「ホントは仲良いんでしょ?」なんて言いたくなってしまいます。う~ん・・・先入観を無くすのはやはり難しい・・・。


2013年7月3日水曜日

上司がチヤホヤされている会社


いろいろな会社とお付き合いをさせて頂いて、会社毎の雰囲気の違いというのはいろいろな部分で感じますが、私が良く感じる違いの一つに、「経営者や上司に対する社員の対応」があります。どんな違いかというと、フラットで差がないイーブンな関係か、何かと上司を持ち上げて特別扱いしているかというところです。

前者は社員の年齢や社歴が若い会社に多く、後者は中堅規模以上、年齢構成が比較的高い、社歴が比較的長いという中のいずれかに当てはまるところが多いようです。すごく簡単に分類すると、前者は俗にいう「さん付け運動」などとは無縁の会社、後者は「さん付け運動」の実施を検討するような会社という感じでしょうか。
また、これはあくまで私が感じる傾向ですが、前者は議論や意見交換が活発だが、俗にいう礼儀やマナーについてはちょっとルーズ後者は上意下達、トップダウンの傾向が強く、上に対して物申すような気概はあまりないという感じがします。

お付き合いがある会社の中に、圧倒的に後者の感じのところがあります。上司が来ると社員たちは何となくそわそわしだし、上司に対していろいろ気を遣って声をかけます。上司もだからといっていばる訳ではありませんが、そんな感じを当たり前に捉えている様子です。飲み会に行っても上司には特別の席があり、周りの人間があれこれと世話を焼きます。ゴルフなどに行っても同じです。まぁ普通の光景といえばそうなのかもしれません。

私はフラットな関係の会社からそうでない会社まで、端から端まで見てきましたので、少なくとも自分の経験範囲では、その会社がどのあたりの位置づけかの程度がわかりますが、実際に中にいる人たちはそんなことはたぶんわかりません。他と比べようもないので仕方ありませんが、私から見ると、「ちょっとチヤホヤしすぎじゃない?」と思ってしまいます。

私自身があまり権力を笠に着るような感じは好きでないので、フラットな関係性の会社には好感を持ちますが、それでもあまりに礼儀知らず、常識知らずでは困ります。組織の統制を考えれば適度なトップダウンも必要です。
一方で、上司にチヤホヤする理由は、社員にとってはそれだけ自分の身の上に影響力がある相手だということなので、組織としては機能しているということですし、それはそれで必要なことでしょうが、これも行き過ぎると個人が自律的に考えることをしなくなり、組織の活力を失います

やはり「あちら立てればこちらが立たず」というところがありますが、中にはフラットな関係を維持しながら礼儀正しい会社もあります。顧客向けの礼儀を重視してそれなりの教育をしてきた結果、いつの間にか社内でも「親しき仲に礼儀あり」の雰囲気ができていったのだそうです。

好ましい社風を意識的に作るのはなかなか難しいことですが、いろいろ工夫すれば良い面を両立することは可能です。試してみると良いと思います。

2013年7月2日火曜日

「人と接する仕事がやりたい」と言う理由


採用面接などで「どんな仕事にやりがいを感じるか」「どんな時に仕事の喜びを感じるか」という質問をすると、「人から感謝される」「人の役に立っている」「有難うと言ってもらえる」といった答えを聞くことが多くなったと感じます。ボランティア活動に積極的な人も増えていますし、震災があったことも、そんな気持ちが増している一因になっているように思います。

ある会社の人事部門の女性が「以前担当していた採用活動に関われなくなって、前向きな気持ちで人と接することが少なくなった。やっぱり相手の反応が直接感じられる採用活動に関わりたい!」と言っていましたが、これも同じような感覚かもしれません。

私の仕事も基本は人と接する仕事ですが、例えば研修などの方が直接相手の反応がわかるし、「参考になりました!」とか「良かったです!」なんて声をかけてもらえることもあるので、それについては確かにやりがいを感じます。
ついでに言えば「今日の研修はダメだった」などと面と向かって厳しく言われることはほとんどないですし、自己満足してしまえばそれで気分よく終わってしまうという甘い面もあります。

世の中の多くの仕事は、どちらかといえば相手の反応が直接わかることは少ないと思います。メーカーであればあくまで製品を通しての反応ですし、サービス提供だって直接的なものばかりではありません。

前述の「採用活動がやりたい女性」に私がアドバイスしたのは、「相手の反応を知る努力をすれば、どんな仕事でも相手の反応は感じられる」ということです。メーカーの人だって、市場調査をしたり、アンケートをしたり、モニター調査をしたり、ユーザーの反応を知ろうという取り組みをたくさんします。「人事の仕事に対する社員の反応がわからない」なら「自分から聞きに行けばよい」のです。こんな話をしたら、ちょっとは納得してくれたようです。

もう一つ言えば、やっぱり「直接」「その場で」「褒められる」のはうれしいし、やる気につながるということです。だから「人から感謝されて有難うと言ってもらいたい」のです。マネジメントをする側の人がこんなことを工夫すると、直接的な反応ばかりにこだわる必要が無くなってくるのではないかと思います。