2017年9月25日月曜日

これから一層難しくなってくるように思う「引退の決め方」



歌手の安室奈美恵さんが自身のブログで1年後の引退を発表し、いろいろ話題になっています。
引退を惜しむ声は数多くありますが、彼女の引き際や、自身の信念に基づいて行動する様子を称賛するものも同じように多数あります。あらためて影響力が大きな人だということが良くわかります。

この話とは別に、最近「引退」ということに関して、いくつか目にした記事や話題があります。
これは、ある時期音楽で生計を立てようとしていた人の引き際が書かれていた記事ですが、この人は自分で年令を区切っていて、それまでに芽が出なければあきらめようと決めていたそうです。
「ミュージシャン」の場合、運、才能、実力が必要な点では「アスリート」と同じですが、“体力の限界”というけじめがない点が違っているそうで、自分で見切りのつけ方を決めておかないと、いつまでもずるずると引きずってしまいがちなのだそうです。
辞めるタイミングを逸してしまうということは、次の人生のスタートが遅れるということで、そうなると再スタートを切ることがどんどん難しくなってしまうということでした。

また、これはある芸能人の話ですが、この人は「芸能人の引退」というのは自分が決めるというよりは周りが決めるものだと思っていて、要は仕事の依頼がなくなれば、本人の意思の関わらず引退せざるを得なくなるという話でした。仕事の依頼があるうちは、まだ自分に何かが求められている、何かしらの価値があるということなので、自分は仕事をすると言っていました。

さらに、サッカーの各国代表選手の話で、これも代表に選ばれなくなれば、自然に引退と同じことになるのに、まだ望まれているにもかかわらず、代表引退を先に自分から言ってしまうことの是非というようなものでした。

企業における引退の話で言えば、最近は事業承継や後継者の問題で困っている経営者がたくさんいますが、これも自分は辞めたいが、状況が許されずになかなか辞められないという話です。

ただ、逆にこういうことを、世代交代を阻害する動きと見る向きもあります。実際にいろいろな組織では、年長者ばかりが既得権を盾にはびこって、老害などと言われている例を数多く目にします。「自分で引退を決める」とは言っても、適切な時期に自分の意志で身を引くことは、なかなか難しいということでしょう。

そして、ここまでの話はすべて、自分の意志で引退するか、引退したくても許されないか、続けたいならば続けられるということなど、「引退を自分で決める」という話でしたが、唯一違う例は、「企業の定年」による引退です。最近は継続雇用などで65歳までは働くことができますが、ある決められた時期に、本人の意思にかかわらず引退をしなければならないことに変わりはありません。

企業に勤める形で働いている人が圧倒的に多いため、「自分で引退が決められない」ということがいかにも当たり前のようになっていますが、「引退の仕方」ということでみていくと、自分の意思にかかわらず辞めなければならないのは、実は結構特殊な形だということがわかります。

最近は働き方改革で副業の推進などが言われ、生涯現役のような話も数多く出てきていますが、そうなると、今度は「引退は自分で決めなければならない」ということが増えてきます。
そして、この「企業の定年」のように強制的に引退を迫る形が薄れていくと、周りから見ればもう引退してほしいのに、本人が認めないケースはこれからどんどん増えていくことが考えられます。

引退してほしくない人が辞めてしまうことより、引退してほしい人がいつまでも辞めないことの方が、問題は大きいように思います。こんなことを言っている私自身も、ひと昔前であれば定年といわれる年齢になりますから、他人のことばかりを言っている場合ではありません。周りから「引退してほしいけど辞めない」などと、自分が言われないようにしなければなりません。
あくまで「引退は自分で決めること」ですが、その適切な時期を自分の意志で決めるのは本当に難しいことです。

安室さんのような引き際は、そう簡単に真似できないことだとあらためて思います。


2017年9月22日金曜日

情報化社会では「釈迦に説法」に注意しなければならない



「釈迦に説法」という言葉があります。
とても詳しい人に物事を教えているという意味ですが、その使い方は「自分よりもよく知っている人や上手い人に物事を教えている様子の愚かさ」を例える時や、「詳しい人に教えければならない時に、自分が謙遜して言う」といった場合があります。

私のようなコンサルタントという立場では、超一流のビジネスパーソンに対しても、何かを教えなければならないということがあり得ます。はっきり言って相手の方が実力は上だったりしますから、伝え方には本当に気をつけなければなりません。

私がとにかく心がけているのは「偉そうな態度」「上から目線」「一方的な物言い」をせずに、誰に対しても謙虚に接するということですが、そうは言っても実際には足りておらず、「釈迦に説法」に陥ってしまっていることは、今までも数多くあっただろうと思います。

また、その分野の達人と言われるような実力者であればあるほど、他人がひけらかす中途半端な知識に対しては、「なるほど」などと言って受け流し、あえて指摘はしないので、自分が相当敏感になっていなければ「釈迦に説法」だったということにはまったく気づけません。あらためて、本当に気をつけなければいけません。

その一方、他人が陥っている「釈迦に説法」には、最近特に気になることが増えました。自分が意識しているせいで、他人の振る舞いは目につくということがあるのかもしれませんが、どうも自分が年令を重ねるほどに周りの人の平均年齢も上がり、そうやって経験を積んできた人ほど自分の知識をひけらかしたがる傾向があるようで、自分の知識に自信がある人、また相手のレベルを気にしない人など、この「釈迦に説法」の状態に気づかない人が多くなってきたと感じます。
そもそもコンサルタントという仕事をする人にはそんなタイプが多いので、よけいに自分の周りで目についているのかもしれません。

この「釈迦に説法」を気にしない理由は何かと考えると、自分の経験や知識、持っている情報量への自信だと思います。相手との比較で「こんなことは知らないだろう」「こんな経験はしたことがないだろう」ということですが、この自信は今の情報化社会では少し考え直さなければならなくなっています。

例えば、昔はある程度の人生経験を積まなければ知る機会がなかったことが、今はインターネットやSNSなどを駆使して情報収集すれば、疑似体験として知ることができる機会はかなりたくさんあります。一部の経験者しか接することができなかったような情報を、リアルな画像や動画などを通じて見ることができます。

もちろんそれはごく浅い情報かもしれませんが、少なくとも知識があることには違いありません。情報収集能力が高い若者は意外に多くのことを知っているので、例えば,年長者がいかに自慢げに語っても、実は若者にとっては既知のことというケースは意外にたくさんあります。
これは「知識」だけでなく「経験」ということでも同じで、ちょっと調べれば多くの人が語っている経験談に接することができます。目の前で自慢げに経験談を語っても、情報を持っている人にとっては、多くの話題の中の一つにしかすぎません。

そうは言っても、直接語り伝えることには間違いなく意味はあります。ただし、その語り方が問題だということで、相手の方が多くの知識、情報を持っている場合が確実に増えていることを認識しなければなりません。そのときの姿勢として、あくまで一つの見解、情報提供として「決めつけず、自慢せずに語る」ということが重要です。

「釈迦に説法」も、当の本人が恥ずかしいと思わないならば、それはそれでも良いのかもしれません。ただ、そういう人に限って若者に説教じみた話ばかりして嫌われていたりします。せっかく良い話をしていたとしても、相手に受け入れてもらえないのでは意味がありません。

情報化社会だからこそ、今まで以上に「釈迦に説法」には注意が必要な時代になっているのではないかと思っています。


2017年9月20日水曜日

小田急の沿線火災の件で思った、「意思決定の速さ」がリスクマネジメントにつながるということ



小田急線の沿線火災が車両に延焼した事故で、いろいろな検証記事が出ています。私はいつも利用している沿線住民なので、他人ごとではないということもあり、それぞれ興味深く見ています。
そもそも沿線の火事が電車に燃え移るという事故は、未だかつて前例がないそうで、まったくの想定外だったそうです。

大ざっぱな状況は、現場で電車に火事を知らせる目的で踏切の非常ボタンが押され、システムで電車は自動停止し、その停車位置が火災現場の真横であり、そこからあらためて電車を動かすには指令本部の確認、オペレーションが必要で、運転士は現場を確認して連絡する手順になっていたが、迅速な対応ができなかったということです。

記事を読んでいると、例えば非常ボタンはあくまで「踏切支障」を知らせるものなので、その使い方が良くなかったとか、現場で警察や消防が現場でその都度口頭で指示していて混乱したとか、いろいろ理由はあったようですが、鉄道での安全確保のそもそもの発想として、何か起こったらとにかく電車を「いかに“早く”止めるか」ということと、「安全確認ができないうちは“発車させない”ということだったので、今回のように「いかに“安全な場所に”止めるか」ということと、「その場から逃れるために“すぐ発車させる”という状況は想定されていませんでした。

システム頼りということの怖さや、何か起こってから初めてわかるというのはありますが、この件についてある専門家が言っていたことで、私が印象的だったことがあります。それはシステムがどうこう言うような複雑な話ではなく、「警察や消防からの第一報が指令本部に入るルールになっていれば防げた事態ではなかったか」ということでした。
特に緊急時のコミュニケーションでは伝言ゲームを避ける工夫が必要で、それはわりと原則的なことですが、今までの手順にはそれが必要な事態の想定はなかったということです。

この手の話は会社の中でもよくあることで、例えば真っ先に知らせるべきリーダーへの連絡が遅れて対応が後手に回ってしまった、責任者に知らせずに処理しようとしたが対応しきれず問題が大きくなってしまったなどということがあります。どちらも全体状況を把握し、なおかつ現場に直接アクションできる人への伝達がされていない、もしくは遅れているということで、どちらの場合も問題は結果的に大きくなってしまいます。

今回起こったことは電車での事故ですが、運行再開には「慎重な意思決定」が優先され、それに向けた対応だけしか決められていなかったことで、結果として想定外ということになってしまいました。
似たようなことは組織のマネジメントでも起こり得ることですが、「慎重な意思決定」に慣れてしまっていると、いざという時にスピードアップすることはなかなかできなくなります。
「意思決定の速さ」は、平常時よりも緊急時やトラブル発生時により強く求められるということで、そのためにはやはり日頃から準備をしておかなければなりません。

今回の件から、「意思決定の速さ」はリスクマネジメントにもつながることで、常に意識していなければならないものだと痛感しているところです。